カーネーション
ノベルSS2>悠久のリインカネーション
Jeux Interdits
  1

 一面氷色の世界。
 時計塔は凍てつき動かずの針。
 その中に亜麻色の髪の少女。
 色のない世界の中、彼女だけが鮮やかだった。
 されど時間の止まった世界の中、彼女の心臓もまた停止していた。
 胎児のように丸まって眠る彼女の背中には天使の羽根。
 抱き抱えてみれば存在しない体重。
 オレは泣き、そして泣いた。
 その蔦のように伸びた髪に指を通す。
 鈴の音が鳴り響いた。
 彼女が―――目を覚ました。
 体重を取り戻し、天使の羽根を引っ込めて、着地する。
 不安そうな顔でオレを見つめる。
「ここはどこ?」
 オレは適当な答えを与えた。
「君は誰?」
 オレは本当の答えを与えた。
 そしてオレは涙を堪えてこの世界を破壊する。

  2

 鈴の音が聞こえる。
 目蓋を貫いたのは春の陽光。
 耳朶を劈いたのは彼女の声。
 起き抜けに彼女の作ったご飯を噛めば、その隙にオレの布団を干す甲斐甲斐しさを見る。
 四角い窓に切り取られた春は透き通って、切ない風が亜麻色の髪をなびかせる。
 鈴の音が鳴り響いた。
 逆光に霞む過去への胎動。
 輪廻に軋む罪悪感の魂。
「食べないのか?」
 オレは彼女に声をかける。
「家で食べてきたから」
「家?」
 記憶は繋がる。
 そして彼女は幼馴染みだった。
 両親の居ないオレを引き取ってくれた、彼女の両親。
 中学を卒業してからのひとり暮らし。
 彼女はときどき、オレの面倒を見に現れる。
「冷蔵庫の中、なにもなかったよ」
「納豆のタレがあっただろう」
「納豆のタレでなにを作れっていうのよ」
 不摂生で死んじゃうよ、と彼女は言った。
 家から食材を持ってきたのだろう。
 同い年とは思えないくらいお節介焼きな彼女。
「ごちそうさまでした」
「食べるの早いよ」
「消化も早いぜ」
 オレの言葉に嘆息して、弁当箱を寄越す。
 食器を洗うのを待って、オレは外へ出た。
 塗ったように青い空。
 雲ひとつない青い空。
 鈴の音が聞こえる。
 彼女とふたり、学校を目指して歩き出した。

  3

 学校に着いて、別々のクラス。
 オレはクラスメイトに話しかけられる。
「それでふたりは付き合っているの?」
 対話の中、そのような質問をされた。
 正直なところを答える。
「付き合っていたら、別居していない」
 クラスメイトは親友と呼べる存在だったので、ありのままを話すことにした。
「あいつの家な、結構な上流階級なんだ。養子としてのオレは可愛くても、娘を前にすれば悪い虫というわけ。正式に付き合っていたら、アパート暮らしなんてしていないさ」
 オレの言葉に刃を返す親友。
「いや、付き合っていたからこそ追い出されたという可能性もある」
 オレは疑いの目に目を合わせて、そして笑った。
「残念ながらオレたちの間に情事はないな。考えてもみろ、七つのときから一緒なんだ。きょうだいみたいなもので、そこに恋愛感情はありえない」
「……そっか。それは残念だよ」
 言って、席に戻る親友。
 授業が始まる。
 授業が終わる。
 授業が始まる。
 授業が終わる。
 授業が始まる。
 授業が終わる。
 授業が始まる。
 授業が終わる。
 昼休みになって、オレは中庭を目指した。
 その梅の木の下で、親友が彼女に告げる。
「僕と付き合って欲しいんだ」
 彼女は答えない。
 風が鳴き、鈴の音が聞こえる。
 そして彼女は言った。
「ごめん、好きな人が居るんだ」
 目が合った。
 彼女と。
 そして―――

  4

 告白の日からオレは彼女に冷たく接するようになる。
 それでも彼女は愛想を尽かさない。
 日頃うざったいとさえ思っていたお節介焼きは、誰よりも強い母性本能だった。
 彼女の胸に抱かれていればすべてから護られるような気がした。
 明日からは優しくしようと思った夜のこと、携帯電話に着信が入る。
 それは彼女からだった。
「いまから学校に来られないかな」
 先が見通せる言葉。
 馬鹿みたいだと思った。
 もう寝ようと思った。
 それでもオレは学校に行った。
 中庭には破れた服を纏った彼女が居た。
 理由は聞かなかった。
 理由を言わなかった。
 オレは彼女の名前を呼んだ。
「オレと付き合ってくれよ」
 彼女は答えない。
 空にはただ、笑う月。
 そして鈴の音。
 彼女の体温を背中に。
「わたしなんかでいいの?」
「趣味の悪さなら、おまえに勝てるもんか」
 言って、オレは彼女の腕を振りほどいた。
 その柔らかい身体を正面から抱き締める。
 腕に包めば、なんて細い身体だろう。
 その儚さは血を失うような既視感。
 彼女は言う。
「今日からは―――幼馴染みでも、きょうだいでもなく―――恋人同士、なんだよね?」
 記憶の錠に胎動の鍵。
 悪意に満ちた真夏の夜の夢。
 彼女を送り、オレは部屋に戻った。
 ひとり最悪の舞台に挑む。

  ∞

 絶氷の扉が開かれる。
 それは冬の空より冷たい我が家。
 すべての食器が凶器となる戦場。
 虐待よりも孤独よりも空腹がつらいという非日常。
 そして―――共依存という最悪。
 オレには双子の妹が居た。
 黒髪の妹が居た。
 等しく虐げられていた妹はオレの希望にして運命共同体だった。
 同じだけの背丈。
 同じだけの体重。
 お互いの考えが読み合えるという共有感。
 ふたりでひとつにしてひとりでふたつという充足感。
 オレたちは手を組んで悪を倒した。
 それでも物語は終わらなかった。
 オレたちは当たり前のようにふたり暮らしを始める。
 七歳と七歳で生きようと思った。
 されど世界から隔絶された世界はあまりにも不自然。
 いつしか妹は転ぶことが多くなった。
 やがて妹は遊べない身体になった。
 次いで妹は歩けない身体になった。
 そして妹は喋れない身体になった。
 それはさながら呪いのように。
 報復は永遠に続く輪廻の輪。
 現象と化した祟りは際限のない無限回廊。
 妹の舌は味を感じなくなり、妹の目はなにも映さなくなった。
 すぐに匂いを感じることもなくなり、その触覚さえ失った。
 残ったのは聴覚と首から上の動きだけ。
 それは死に絶える直前の両親と酷似した症状。
 介護するばかりの日常は倦怠感。
 人形化する妹に抱いたのは支配感。
 ある日オレは妹に首輪を嵌める。
 鈴の音の首輪を嵌める。
 苦しいとき、寂しいとき、お腹が空いたとき、排泄したいときに鳴らしなさいと言って、妹に僅かな言語を与える。
 鳴らされる鈴の音は捨てられた猫の目。
 嫌悪感。
 寂寥感。
 焦燥感。
 絶望感。
 オレは妹の唇にキスをした。
 そして希望の光は舞い降りる。
 繋いだ手を握り返したのがその始まりで。
 見る見る内に動き出しては、失った感覚から順に取り戻す妹の姿。
 それは両親の死から四十九日後のことだった。
 呪いは終わり、奇跡が始まる。
 オレたちは幸せになった。
 だっていうのに―――
 触覚を取り戻した夜、妹は苦しんで死んだ。
 栄養失調と過度のストレスによる病死だった。

  5

 そしてオレは親戚である彼女の家に引き取られることになる。
 出逢いの形は、およそ最悪と呼べるほどの暴走。
 それは親友にも言わなかった昔の話。
 彼女の家に拾われた夜、オレは彼女の手を振り払った。
 次の日にはその手を捻り上げて、三日目には殴り付けていた。
 それは裁かれたい気持ちが生む明確な罪。
 結果として罪作りの為だけに虐待される少女。
 心が折れるまで、幾千夜と繰り返される折檻。
 それでも彼女は両親に告げ口しなかった。
 蹴り飛ばしても縛り付けても秘密にしていた。
 自分が我慢すればすべてが上手くいくと信じていた。
 そして傷付けた癖に泣き出すオレを慰める聖母性。
 オレは彼女に自らの悲劇を伝える。
 彼女は頷いて、そして言った。
「それならわたしが、代わってあげるよ」
 オレは彼女に鈴の音の首輪を渡す。
 そして彼女の名を呼ばない。
「だから、君が望んだ永遠は―――」

「―――忘れて」

  6

 鈴の音が聞こえる。
 目蓋を貫いたのは夏の燐光。
 耳朶を劈いたのは恋人の声。
 起き抜けに彼女の作ったご飯を噛めば、その隙に。
 そして刹那の風が亜麻色の髪をなびかせる。
 鈴の音が鳴り響いた。
「その髪飾り―――」
 漆黒の瞳と視線を合わせて、言う。
「―――猫みたいだな」
「前も同じこと言ってたよ」
 仄かに笑う彼女。
「ニャーとしか言わないで、猫扱いした」
「そうだっけ?」
「そうだよ。それで、君の方が猫みたいになってた」
 人生は記憶にないことばかり。
 鈴の音は錯覚に誘う夢のあと。
 そして卓袱台に足を入れる彼女。
「いただきます」
 向かい合って同じものを食べる。
 オレたちは家族になる。

  7

 そしてオレは彼女の名前を呼んだ。

  8

 かくして永遠が破壊される。
 妹の代替品に過ぎなかった彼女は、出逢ってからの記憶をすべて失う。
 氷色の世界で、彼女との対話。
「ここはどこ?」
「呪われた世界」
「君は誰?」
「恋人」
「わたしは―――」
 オレは彼女の名前を呼んだ。
「―――わたしなんかでいいの?」
「ああ。オレはおまえのことが好きなんだ」
 彼女はオレの名前を呼んだ。
「がっかりすると思うよ」
「どうして」
「響き合わなくなるんだよ」
「…………」
「他人同士になっちゃうんだよ、わたしたち」
「怖いのか?」
 彼女は沈黙する。
 オレは溜息を吐いて、言った。
「他人同士だから、好き合えるんだ」
 それは他の誰かを否定する言葉。
「愛し合うきょうだいなんて、気持ち悪い」
 彼女は俯く。
 顔を上げたときには、泣き笑い。
「愛してくれる?」
 オレは彼女を抱き締めた。
 その亜麻色の髪を撫でつける。
 鈴の音は聞こえない。

  9

 夏が終わり、冬になった。
 オレは拳を失った。
 次いで足を失った。
 そして声を失った。
 やがて味を失った。
 ついに目を失った。
 すぐに鼻を失った。
 最後に魂を失った。
 それは両親に与えた殺戮の順序。
 見境を得た凶器の降臨。
 死を確認してから生を蹂躙する呪いの形。
 痛みのない世界の痛み。
 追想に消える永遠の世界。
 そして彼女の泣き声。
 鈴の音が聞こえる。
(ss2-16.html/2007-02-16)


/ほしのうたへ
short short2
01 黒猫のフーガ-Volevo Un Gatto Nero-
02 仔牛の翼-Donna Donna-
03 夜明けの晩に-Ring Ring-
04 おじいさんのロボット-Grandfather's Clock-
05 灰かぶり姫は居ないのに-Galopp-
06 ヴォルケイノサーカス-Funiculi Funicula-
07 ふたりの子-Seven's Children-
08 墓場の手紙-Massa's in De Cold Ground-
09 きみの居る世界-Barbara Allen-
10 銀色人形姫のソワレ-Eine Kleine Nachtmusik-
11 人魚姫のレクイエム-Requiem-
12 人魚姫のレクイエム-Die Lorelei-
13 ファイナルノスタルジア-Ikaros-
14 夢の夜の真夏-Midsummer Night's Dream-
15 隷属のラストサディスト-Traumerei-
16 悠久のリインカネーション-Jeux Interdits-
17 ほしのうた-Stille Nacht-
18 雪と月と花の季節-Those were the Days-
19 シュレディンガーの地球儀-Korobushka-
20 ノクターナルミレニアム-Hallelujah-