カーネーション
ノベルSS2>黒猫のフーガ
Volevo Un Gatto Nero
  1

 昔々あるところに青年が居て、青年は大金持ちでした。大金持ちであるからには多少の無理が利いて、その多少の無理に『少女を飼う』という非常識なことをしました。少女は道端に捨てられていたもので、雌で、生後一年でした。
 十歳まで育てるその過程、清潔で高価な食べ物を与えて、無理のない運動をさせました。奴隷や人形というよりは、可愛いペットを育てるような扱い方。ただし青年にはペット相手に言葉を紡ぐ趣味はなかったのでしょう、ふたりはただの一度も『対話』をすることはありませんでした。
 外に出られず、外を知らず、どこにも繋がらない世界の中で。
 鳴かない少女は、今日も今日とて柔らかなベッドで背中を丸めて眠るばかり。
 そのような環境に育った名もない少女は、求められた望みを果たしたのでしょう、言葉の代わりに美しい容姿を獲得しました。漆黒の髪は絹糸のようで、漆黒の瞳は嘘なんて知らなくて。歳の割には高い背丈、腰は折れそうに細いけれど胸もお尻も薄いから目立たないスレンダー。動物に例えれば高貴な黒猫で、黒猫であるからには赤いリボンがよく似合いました。
 性格は猫の目のように気まぐれで。
 鳴かない少女は、今日も今日とて青年の身体に噛み付きました。
 それでも怒ることなく叱ることのない青年は、少女のことを大切に思っていました。言葉の存在を隠して閉じ込めていることに多少の罪悪感はあったけれど、そんなものはどうでも良くなるくらいの幸福に満たされていました。
 少女の十一歳の誕生日、青年は喀血して死にました。

  2

 青年の父親が地下室の扉を開くと、中には血の匂いが漂っていました。明かりを点ければ血を吐いて倒れている少女の姿。病院に連れて行くと生きていて、少女が末期癌であることが明らかになりました。
「君は息子とどういう関係なんだい?」
 質問されたということすら分からずに、少女は見知らぬ他人とその『言葉』にひたすら怯えていました。漆黒の瞳が映していたのは青年だけで、その小さな口が受け入れるのは青年の指先だけ。食事を与えてもまったく受け付けませんでした。
 少女はしきりに冷たい地下室へと帰りたがり、青年に逢いたがっていました。青年が死んでいることを伝える術はなく、死という概念を知らない少女はあまりにも哀れ。弱っていく少女の為に、青年の父親は息子の形見を渡しました。
 愛用していたタオルケットに、愛飲していたペットボトル。
 そして携帯用のテープレコーダー。
 少女はタオルケットにくるまって、ペットボトルに口をつけて―――そして青年の声を聴きました。振り向いて見つめるテープレコーダーに噛み付いてその声を噛みしめていました。言葉の概念そのものを知らないのに青年の遺言を聴き続けて青年の父親に手振りで教わった操作方法で巻き戻して、巻き戻して巻き戻して巻き戻してもその幸福は巻き戻らないけれど。
 回想録。
 生前、青年が少女に与えた、たったふたつだけの言葉。
「そうか……君は捨てられたのか」
 雌です。可愛がってあげてくださいと、ギャル文字で書かれた段ボール箱の中で。
「先行き短い僕に拾われて、君は本当に不幸だね?」
 可哀想で可愛いから、君はなにも知らない方がいいとばかりに青年は醜く笑って、そして少女を拾い上げました。寂しさの周波数はいまも憶えている魔法の言葉。誰とも繋がらない世界の中で、見つめ合うふたりは幸せを体現していたのでしょう。
 青年の一回忌、少女は静かに息を引き取りました。

  3

「やあ。外の世界はどうだい? 夢の溢れる世界の中で、監禁されていた人生は馬鹿みたい? でも大丈夫、君が可哀想であればあるほど僕には可愛く映ったんだ。被虐と加虐で幸と不幸の総量は一致する。僕は幸せだったよ。
 それに君だってやっと悪者の魔手から解放されたんだ、これからは十割り増しで幸せを体感できるはず。外の食べ物は美味しいだろう? 君は肉食だからね、野菜を強制する僕はもう居ない。それにいままでは水と牛乳くらいしか飲ませなかったんだ、色とりどりの飲み物はきっと魅力的だろうね!
 機嫌こそ悪くなるものの、食べ物を残さない君は魅力的だったよ。飲ませるのは官能的だった。一切喋らない君には優越感を抱いていたし、気まぐれであればあるほど僕に依存している君は可愛い僕のペットだったんだ。この侮蔑はどうだ? この侮辱はどうだ? まるで人間扱いされていなかったさまに、君は『気持ち悪い』と思ったろう? 自分の不幸っぷりに神を恨んだろう? 可哀想に可哀想に、君は本当に可哀想で可愛い……!
 だから君の両親について教えるつもりはないし、その資料はすべて焼き払ったよ。君は永遠に幸福とは繋がれない。慰謝料くらいは払ってあげるけどね、満足に働くことさえ難しい君は永遠に僕に飼われ続けるというわけさ。僕は君の中で生き続けるよ。加虐者のお金で生活することの矛盾、呵責を味わえよ黒猫。あっはっは、手にはまだ君の感触が残っているよ。それもきっと君の心を蝕み続けることだろうね。
 さてと、僕はもう死んでしまうけれど、最後に君の人権を大きく略奪してやろうと思うんだ。君には名前がないだろう? その名前は自分で付けるつもりだったかな? それとも本当の親を捜して教えてもらうつもりだった? そのどちらをも僕は否定するよ。拒絶して隔絶して犯してあげよう。そうさ、君の名前はもう僕が考えているんだ。君を誘拐したその日から決めていた。言葉を憶えた君に、言葉の呪いをかけてやるよ。
 君の名は、」
 巻き戻し。
(ss2-1.html/2004-12-01)


/仔牛の翼へ
short short 2nd
01 黒猫のフーガ-Volevo Un Gatto Nero-
02 仔牛の翼-Donna Donna-
03 夜明けの晩に-Ring Ring-
04 おじいさんのロボット-Grandfather's Clock-
05 灰かぶり姫は居ないのに-Galopp-
06 ヴォルケイノサーカス-Funiculi Funicula-
07 ふたりの子-Seven's Children-
08 墓場の手紙-Massa's in De Cold Ground-
09 きみの居る世界-Barbara Allen-
10 銀色人形姫のソワレ-Eine Kleine Nachtmusik-
11 人魚姫のレクイエム-Requiem-
12 人魚姫のレクイエム-Die Lorelei-
13 ファイナルノスタルジア-Ikaros-
14 夢の夜の真夏-Midsummer Night's Dream-
15 隷属のラストサディスト-Traumerei-
16 悠久のリインカネーション-Jeux Interdits-
17 ほしのうた-Stille Nacht-
18 雪と月と花の季節-Those were the Days-
19 シュレディンガーの地球儀-Korobushka-
20 ノクターナルミレニアム-Hallelujah-
Ruby
喀血-カッケツ-