カーネーション
ノベルKHM>ヘンゼルとグレーテル
Hansel und Gretel
  1

 昔々あるところにそれはそれは大きな森があり、その森の木を伐採することを生業とする男が居ました。男にはひとりのお嫁さんとふたりの子供がありました。子供の名前はヘンゼルとグレーテル。とても賢い男の子と、とても優しい女の子でした。
 それはそれとしてこの家は大変に貧しかったので、ある日お嫁さんは言いました。
「このひとかたまりのパンで、この家の食糧はもうお終いさ。
 明日、子供達を連れて森に行くよ。分かっているね? そう、口減らしだ」
 木こりがしつこく食い下がったので、この話はヘンゼルとグレーテルの耳にも届きました。翌日になると四人は森の奥深くまで進み、そこで火をおこしました。お嫁さんは言いました。
「あたしたちは木を採ってくるから、おまえたちはここで待っているように。
 いいかい、もしあたし達が帰ってこなくても、夜になるまで家に戻るんじゃないよ」
 そう言ってお嫁さんはヘンゼルとグレーテルにひとかたまりのパンを渡しました。そのあとで木こりの襟を引っ張って森の更に奥深くへと歩いていきました。夕方になりました。夜になりました。
「なあ、ヘンゼルとグレーテルは無事に家に帰ったかな?」
「あんた見てなかったのかい? ヘンゼルは月夜に光る石を道に落としながら歩いてきたんだ。あの子はとても賢い男の子だよ、グレーテルの手を引いてとっくに家に帰っているに決まっているさ」
 そう言ったお嫁さんは、野苺を摘みながら言いました。
「あれっぽっちのパンでも、子供のあの子たちなら一ヶ月は生きていられるよ。親より先に死なれてたまるもんか。だからこれで良かったんだ。きっと神さまは、天国でみんな引き逢わせてくれるよ―――」
 座り込んだお嫁さんの小さな背中を包み込むように木こりは抱きしめました。ふたりはそのまま眠りました。

  2

 次の日になっても体力は全然回復することなく、空腹感だけがふたりの思考を埋め尽くしていました。それでお互い無口になって―――それでも手だけはお互いを繋いでいました。ただ目的もなく森の中を彷徨って、日が沈んだら寄り添って眠りました。
 次の次の日は起きあがる気力も湧かないほどやつれてしまい、ふたりはお互いの顔を見なくなりました。昨日も歩いたような道なき道を歩いて、歩いている内に甘い匂いを嗅ぎ取りました。ふたりは目を見合わせて匂いのする方へと歩いていきます。
 木々を抜けた先には―――夢でしょうか、お菓子の家がありました。
 木こりが言いました。
「夢じゃないよな?」
 お嫁さんが返しました。
「これが夢でも現実でもやることは同じさ」
 ふたりは夢中になってケーキで出来た屋根を、飴で出来た窓を、タルトで出来た壁を食べました。それでも不思議とカタチを変えないお菓子の家。そのビスケットで出来たドアが、ゆるやかに開かれました。
「妾の家をかじるのは誰じゃ?」
 中からはヘンゼルとグレーテルを足して割ったような背丈の妖精が現れました。耳が尖っていること以外は普通の子供のように見える彼女はしかし百歳を越えていると言いました。三人は自己紹介を終えました。

  3

 そのあとでビーフストロガノフとラプンツェルのサラダをご馳走してくれた妖精は、妾はそろそろ死んでしまうのじゃと言いました。尋ねてみれば身体は極端に若いままでも魂だけは立派に年相応なのだとか。色々と思い出話を重ねた妖精は、お嫁さんの手を取って言いました。
「おまえは妾の姫によく似ているのじゃ。妾が逝くまででいい、傍に居てくれぬか?」
 子供たちのことを思いながらも、いま帰ってもどうせ同じだと思ったのでしょう、お嫁さんは頷きました。妖精は喜んで、喜んだあとで木こりを大きな鳥籠の中に閉じ込めてしまいました。年を重ねて傲慢になってしまった妖精は、これは人質じゃと言いました。
 妖精が眠ったあとでお嫁さんは扉を開けようとしました。ビスケットの扉は妖精の魔法により人の手では開かないようになっていました。それなら妖精を殺してやろうと、眠っている隙に傍らの包丁で胸を刺しました。しかしその薄い胸に触れた瞬間、包丁は妖精の身体に吸い込まれてゆきました。諦めて木こりの居る鳥籠に近付きました。そしてチョコレートで出来た壁を削って、木こりに渡しました。格子越しにお嫁さんは言いました。
「あの妖精が寿命で死ぬまでの辛抱だよ。そうしたらここの食材をすべて奪ってあの家に帰ろう?」
 木こりは頷きました。ふたりは手を繋ぎました。お嫁さんの指にはひとつの、木こりの指にはふたつの指輪が嵌められていました。不似合いなほど甘ったるいパステル調の空間で、ふたりはキスをしました。

  4

 妖精はなにもしなくていいと言ったけれど、それでもお嫁さんは甲斐甲斐しく働きました。妖精をベッドに縛り付けておけば早く死ぬとでも思ったのでしょう。それは変わらない肉体と変わる魂を持つ妖精にしてみれば正解で、彼女は見る見る内に弱っていきました。それでもそれを悟らせないようにお嫁さんのことを愛でていたので、お嫁さんは自分が空回りしているような焦燥感に苛まれました。
 しかして毎夜のように木こりの鳥籠にチョコレートを届けるお嫁さん。妖精が死ぬのが先か木こりが死ぬのが先か分からない現状に怯えて、お嫁さんは木こりの掌を求めました。それが悲劇の引き金として、物語を加速させるとは考えもせず。
 格子越しに抱き合うふたりを、妖精は見てしまったのです。
 彼女はずっと昔から嫉妬深くて、その為にお姫様を失ったのだとふたりに告げました。その事実を明かしたというのに愛し合うふたりを見て、妖精は狂って木こりを殺そうとしました。
「―――泥に溺れて沈むがいい」
 妖精が小さく呪文を唱えると、お菓子の家は融け始めました。それらは見る見る内に泥へと変化して―――いえ、それは元の姿に還ったと捉えるべきなのでしょう。妖精が次いで呪文を呟くと、泥は千の剣へとカタチを変えて音のような速さで鳥籠を串刺しにしました。
 妖精が正気に戻って鳥籠を覗いたとき、しかし木こりは生きていました。
 木こりの前には、彼を庇うように全身を貫かれたお嫁さんが――――――

  5

 妖精は目を見開いて動揺して、歯を食いしばって、それから鳥籠と剣を神聖な水に変えました。
 三人の血と汚れをすべて洗い流したあとで、そのお菓子であり包丁であり剣であり神聖な水であった泥を自分の身の内に回収しました。
 軽くなってしまったお嫁さんを抱えて、木こりが現れました。
 彼は言いました。
「この子、随分と若いと思わないか? オレの自慢の嫁だったんだ。と言っても、後妻なんだけどな」
 お嫁さんの指輪にキスをして、大きな木の幹に彼女を横たえました。
「この子は自分の子供ではないヘンゼルとグレーテルを、自分より大切に扱っていたんだ。愛していたんだよ。嫉妬に狂う愛を否定するつもりはないけどよ、この結末は―――最悪だ」
 妖精はなにも言わずにお嫁さんの亡骸に歩み寄って、お嫁さんの足下に手をつきました。懺悔しているように見えたのも束の間、妖精が呪文を唱えるとお嫁さんの亡骸は大地に沈みました。
 それを見ても、木こりの冷たい表情は揺らぎません。
「おまえに妾の宝をやろう」
 妖精は言いました。
「妾の魔力を食べたおまえならば、ラプンツェルの塔が見えるはずじゃ。そこに数多のアーティファクトを置いてきた。好きなものを持っていくがいい」
「それなら、アンタの命が欲しい。構わないよな? 泥の魔女」
「抜かせ、人間。妾を殺せるのは白雪姫だけじゃ。おまえなど一工程で殺せる……!」
 そう言って呪文を呟くと、黒い光と共に妖精の手にハンドガンが現れました。
 それはもちろん、この世界には未だ存在しないものだったのですが―――
 それでも木こりは怯まず躊躇わず妖精の前へと疾走して、その矮躯を押し倒しました。
「ああ、もう。ああもう。無礼者めが。妾は男が大っ嫌いじゃ!」
 言ったあとで呪文を紡ごうとすると、その口を塞がれました。
「―――っ!」
「なんだ―――口を塞げば魔法は使えないのか。うちのグレーテルより弱いな、アンタ」

  EX

 夜になって、ヘンゼルはグレーテルの手を引いて来た道を引き返しました。来るときに月の光に反射する銀色の石を撒きながら歩いていたのです。そう説明しているのに「もう家に帰れないんだ」「あたしが馬鹿だからお母さんに捨てられちゃったんだ」「お父さんの方が馬鹿なのに」と泣いてばかりのグレーテルをなだめて、ヘンゼルは家に帰ったらどう言い訳を立てようか考えていました。
 しかしその必要はありませんでした。
 家には誰も居なかったからです。
 それからひとかたまりのパンを毎日薄く切ってふたりで分け合い、水ばかりを飲んでふたりは飢えを凌ぎました。「お母さんはどこ?」「お父さんはどこ?」「お母さんはどこ?」と繰り返す妹を寝かしつけて、ヘンゼルはいい加減で心配になりました。もしかしたらふたりとも狼に食べられてしまったのかもしれない。それとも噂に聞くラプンツェルの塔に幽閉されてしまったのだろうか。これからはふたりで生きていかなければならないのかと呟いて嘆息したヘンゼルは、明日になったらグレーテルを連れてまた森に入ろうと画策していました。明日になりました。
 それから毎日のように森に入っては野苺を摘んで家に帰り、野苺を挟んだパンを食べては眠る生活を繰り返しました。三週間が経っても両親は帰ってきませんでした。
 その一週間後に父親が帰ってきました。
「お父さんだ!」
 グレーテルは叫んで父親に抱きつきました。
「すまない。お父さん森で迷っちゃったんだ!」
「お父さんは馬鹿だなー。木こりなのに森に迷うなんて!」
 笑うグレーテルと父親を見て、ヘンゼルは言いました。
「……お母さんは? また死んじゃったの?」
「物騒なこと言うなよ。ここに居る。おいで、ハニー!」
 手を叩く父親の後ろに、まもなく継母が現れました。
 それは間違いなく継母の外見なのですが、いつもと雰囲気が違うような―――
「引っ張るでない。妾を誰だと思っておる」
 父親を殴ったあとで、継母はグレーテルを見つけました。
 新しいぬいぐるみでも買ってもらったように全身でハグしました。
「おおヘンゼル」
「あたしグレーテルよ? お母さん」
 硬直して咳払いしたあとで、彼女はグレーテルにチョコレートを渡しました。
 喜んで跳ねているグレーテルを尻目に、ヘンゼルは言いました。
「―――おかえり、お母さん」
(khm15.html/2006-10-17)


/シンデレラへ
Kinder und Hausmarchen
Title
01 星の銀貨-Die Sterntaler-
02 ラプンツェル-Rapunzel-
03 兄と妹-Bruderchen und Schwesterchen-
04 ヘンゼルとグレーテル-Hansel und Gretel-
05 シンデレラ-Aschenputtel-
06 手なし娘-Das Madchen ohne Hande-
07 踊ってすりきれた靴-Die Zertanzten Schuhe-
08 森の中のおばあさん-Die Alte im Wald-
09 赤ずきん-Rotkappchen-
10 雪白と薔薇紅-Schneeweischen und Rosenrot-
11 狼と七匹の仔山羊-Der Wolf und die sieben jungen Geislein-
12 賢いグレーテル-Die kluge Gretel-
EX ハウスメルヒェン・ダイアログ
EX 子供たちが屠殺ごっこをした話
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