カーネーション
ノベル不思議の国のアリストクラシー>フシギノクニ(1)
Wonderland-1
  0

「さあ――あたし、いまのところ、わからないんです――けさ起きたとき、じぶんがだれであったか、まあわかっていたんですけど、それからあとは何回も変わってしまったみたいで」
(ふしぎの国のアリス|ルイス・キャロル)

  1

 オレの母親は五十歳で、バツイチで、桜色病院で看護師として働いていた。そうしてオレたち兄妹を養っている母親は家事の一切を妹に押し付け、またオレに立派な社会人になって貰おうと躍起になった。そのように輝ける未来を見つめていないと働くことなどできなかったのかもしれない。オレは母親に怯えてはいたが、恨んではいなかった。
 それでもオレには勉強の才能がないらしく、また妹は学校と家事の両立を図れるほど要領がよくなかった。鳶は鷹を産めないし、たとえ産めたとしても正しく育てられないのだ。母親がなんの問題もなく働いているかといえばそんなこともないはずで、きっと嫌われ者として機能しているのだと思う。オレたち家族は似た者同士だった。
 しかして日々ストレスを溜め込んでいく三人は、その所為でまともに対話をすることができなくなってしまったのだろう、見る見る内に破綻していった。妹はオレしか見ていなかったし、オレは母親しか見ていなかった。母親が見ているのは―――
 だから解決法は早く大人になることだった。オレが大人になればすべてが救われると思った。妹はその持ち前の依存性ですぐにも誰かと結婚すると思っていたし、正直に言えば「母親に楽をさせたい」という有り体の気持ちは確かに持っていた。俯瞰で見れば母親も悲劇のヒロインなのだ。仕事を辞めれば、きっと優しい母親に戻ると思った。
 ほんの一年前まで、オレたち家族は幸せだったのだ。
 時計の針が戻らないのなら、せめて勢いよく回ってくれと思った。
 それが黒朱鷺晴一の、夢語り。

 腕を伸ばすと、そこに妹は居なかった。布団は畳まれていて、その上にパジャマが置いてある。目覚まし時計は午前五時三十分を指していた。それは母親が病院に出勤する少し前の時間であり、その頃には寝た振りをしているはずの妹が、居なかった。
 オレは疑問に―――いや、そんな簡単な言葉では伝えられないほどに焦りながらも、とりあえず母親が外に出てから行動しようと狸寝入りをしていた。十分が経過する。二十分が経過する。
 労働開始時間である六時になっても、母親が家を出る気配はなかった。
 あるいはオレが起きる前にはもう外に出ていたのかもしれないと、オレは意を決して部屋を出る。玄関の靴を見るとそこに妹の靴はなく、母親の靴はあった。
「え…………?」
 それは理想の逆さまだった。シンデレラが硝子の靴を履けなかったような強烈な違和感を憶えながらも、トイレを済ませて、顔を洗って歯を磨いて、精一杯に自分の存在をアピールしたあとで、覚悟を決めて居間の襖を開ける。
 そこに母親の姿はなかった。
 しかし吐き気をもよおす臭いがした。
「母さん?」
 覚悟を決めた勢いで母親の部屋に繋がる襖を開けた。大きな窓から差す陽の光が化粧台の鏡に反射して家具を煌めかせていた。六枚の畳を照らし、低いパソコンデスクを照らし、桐の箪笥を照らす。その中央に敷かれていた布団の上に、母親の死体があった。
「……………………」
 母親は両の手首と足首を縛られて死んでいた。不可解なことにそれは死後二週間は放置されていたといわんばかりに腐乱していて、酷い臭いがした。それでも服装は―――そしてその顔は、紛れもなく母親のもので。
 オレは慌てて襖を閉めた。
 居間を出て、兄妹部屋に逃げ込んで、布団を被る。
 歯をカチカチと噛み合わせながら、考えなくてもいいことを考える。
「オレは昨日、母さんの姿を見ていない」
 思考が口からこぼれる。
 オレは昨日、妹が怒られている場面を見て以降、母親の姿を見ていない。
「そういえば湯船に浸かっているとき、母親の声を聞かなかったような…………」
 あるいは母親の怒声はいつものことだから、憶えていないだけかもしれない。
 けれど、浴室を出てからの記憶は鮮明だ。
「怒り疲れたからといって、あんなに早くに眠るだろうか?」
 あのとき妹は、取るものも取りあえず浴室に急いでいた気がする。
 そしてオレは考えなくてもいいことばかり考えて、結論に辿り着いてしまう。
「考えなくたって、密室に三人しか居ないのなら、犯人は時雨じゃないか―――!」
 オレは一張羅に着替えてマフラーを巻いて外へ出た。
 一晩で腐乱死体化していた理由なんて考えもせず。

  2

 否、これより先にそんなことを思考する時間は存在しない。
 不思議ばかりに満ちたふざけた世界は、世界が不思議であるということに精一杯で、どうやら部外者であるオレを受け入れていないようだ。

 五○一号室の扉を開くと、五○二号室の扉が開いていた。ドアストッパーがかけられていて、しかし誰かが出てくる気配はない。そういうこともあるのだろうと階段を下ると、四○二号室の扉が開いていた。無論のこと四○一号室の扉も開いている。これは珍しいこともあるものだと階段を下ると三○二号室の扉が開いていて、ドアストッパーがかけられていた。三○一号室の扉から人が出てくる気配はなく、そういうこともあるのだろうと階段を下る。すると驚いたことに二○二号室の扉が開いていて、無論のこと二○一号室の扉も開いている。これは珍しいこともあるものだと階段を下ると、一○二号室の扉が開いていた!
「これは一体どういうことなのか?」
 一○二号室の扉を覗くと、中は家具ひとつ置いていなかった。居間に繋がる襖も全開で、窓から雪の舞う外が見える。しかし表札だけはしっかりと苗字が刻印されていて、というかオレは一昨日この家のおばあちゃんと対話したばかりだった。
 しかしその事態についても深く考える時間は与えられていないらしい。
 キイ、と扉の開く音がした。
 梟のような速度で振り向けば、そこには一○一号室の住人が居た。
「…………覗き魔」
 それは年齢を考えれば平均的な背丈の、灰色の髪の女の子だった。男の子のように短く切った髪はお風呂上がりに見えた。無論のこと知り合いで、三日前に対話したばかり。
「変態」
 なにかと言えば「変態」と言う女の子。
「壱子」
「呼び捨てないでください」
「わんこちゃん」
「……次にその綽名で呼んだら、蹴りますから」
 注文の多い女の子、支倉壱子。
 中学一年生。
 妹の古いクラスメイト。
「それより大変なんだポチ―――」
「そんなに死にたい?」
 弁慶の泣き所をローファーで蹴られたあとで、オレはこの階段のドアがすべて開かれていることを説明した。母親は「死んでいた」とは言わず、「消えていた」と伝えた。
 壱子は右腕で左腕を抱いて、凛とした声で言った。
「私のお父さんも、朝起きたら消えていました」
「―――嘘だろ?」
 壱子をどけて一○一号室に入ると、確かに壱子の父親は居なかった。壱子はなにも言わなかったが、オレと同い年であるところの『兄』も居なかった。
 勝手に居間に上がるオレのあとについて、壱子は言う。
「ひとつ、気付いたことが」
「なんだ?」
「住居不法侵入」
 オレはタイミングの悪い冗談に少しだけ苛立った。
 さっきは自分がふざけたばかりなのに、だ。
「怒るんだ」
「いや、いやいやいや!」
 相性が悪いのか、壱子と話しているといつも険悪になる。オレは現状を打破する為にそんな壱子に抱きついた。恋人が居るからこそ成せる業、なのかもしれない。
「襲っちゃうぞガオー」
「―――やだぁっ!」
 予想外に可愛い声で言って、オレの身体を突き放した。普段は冷静沈着にして淡々と話す壱子だが、男の身体に免疫がないのかもしれない。というかオレは自分の犯した罪の重さに愕然とした。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめん。どこからどう見てもオレが悪かった」
 沈黙が流れる。右腕で左腕を抱く壱子。
「……別に」
 壱子は壱子で大声を出したことによる恥ずかしさで胸がいっぱいだったようだ。オレは反省だけして、部屋を出ようと玄関に戻ろうとした。
「待ってください」
 壱子がフリースの背中を掴んで引き留める。オレたちは背中合わせになった。
「気付かないんですか?」
 顔だけ振り向いて壱子の灰色の頭を見る。髪型を変えた様子はない。
 そのあと壱子はこの世界の仕組みに迫ることを言った。
「この部屋が、一年前に戻っていることに」
(lp2-6.html/2007-01-05)


/07 フシギノクニ(2)へ
Aristocracy in Wonderland
Title
ex キャスト-Princess Arice-
01 コハクノマチ(1)
02 コハクノマチ(2)
03 コハクノマチ(3)
04 コハクノマチ(4)
05 ウサギノトケイ
06 フシギノクニ(1)
07 フシギノクニ(2)
08 フシギノクニ(3)
09 フシギノクニ(4)
10 ウサギノオツカイ
/エルピーツー・インデックスへ