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ノベル>不思議の国のアリストクラシー>コハクノマチ(4) | ||
Prologue-4
7 琥珀町団地三十号棟五○一号室から、盛大な怒鳴り声が聞こえた。ただでさえ壁が薄いというのになにもそこまで自己主張しないでもいいと思う。一○一号室の部屋にまで一字一句聞き届けられていることを知らないのだろうか。オレは人に悪意を撒く盛大な溜息を吐いて、三十号棟の狭くて暗い階段を上って、四○四号室の扉に鍵を差した。 途中、思い出してマフラーとミサンガを鞄の中に仕舞う。 扉を開くと、母親の罵声が耳を劈いた。扉を静かに閉める。靴を脱いで、襖を開ける。 そこには襖の前で立ちつくしている妹と、炬燵に突っ伏している母親が居た。 「…………ただいま」 母親は首だけ動かして、大声を出した。 「おまえこんな時間までどこに行ってたんだよぉ!」 「補習だよ。先生に頼んで。クリスマスだっていうのに、優しい先生だよね」 オレは学校生活とは比べものにならないほど饒舌に語った。 「冬休み中も勉強を見てくれるってさ」 「…………」 母親はそれだけでオレを対象から外して、また妹に怒鳴り散らした。 「出来損ないはおまえだけだねぇ!」 母親はTVのリモコンを妹に投げつけた。それは妹の太ももに被弾した。 「時雨がなにかしたの?」 オレは答えの分かっていることを聞いた。 「この馬鹿は二学期の間一日も登校しなかったんだ!」 オレは神妙な足取りで炬燵の上に置いてあった通知表を手に取ると、そこに刻印されていた数字と文字を読んだ。なるほど分子である欠席日数が分母である登校日数と同一であり、そのことにオレは心底驚いた顔をした。必要ないと判断したのか成績は付けられていなかったが、間違いなくオール『一』と同じ判定だろう。 「これはひどいね。そして気付かなかった。いつもオレが先に登校して、下校するのだってずっと遅かったから」 オレは真摯な顔で嘘を並べ立てた。本当は共犯だったし、学校の先生に相談されたことだってあるのだが、なにも知らない道化を演じた。妹の目が少しだけ潤んだ気がする。 「いい加減でなんとか言ったらどうなんだ!」 唐突に母親が立ち上がって、妹の額を拳骨で殴った。オレはオレより小柄な母親の暴力に怯むばかりだった。妹は押し入れの襖に背中を預けるようにして倒れ込み、それから涙声でごめんなさいと呟いた。 殴ったことによりテンションが上がってしまったのか、母親は妹の顎を掴んでその頬に平手打ちをする。「誰に食わせて貰ってると思ってるんだ!」だとか「痛い思いして産んだのにさあ!」だとか「親不孝者ぉ!」といった言葉を滑舌悪く叫んでいる。オレはなに食わぬ顔をして、それじゃお風呂を沸かしてくるねと言って居間を出た。 居間に隣接している母親の部屋を横切って玄関に戻り、トイレとキッチンを素通りして浴室の扉を開けた。案の定水は張っていない。オレは服を脱いで浴室に入り、扉を閉めてシャワーを浴びた。それから浴槽を適当に流して栓をして、シャワーを抱えたまま空の浴槽に入った。芯から冷えた身体と心に、シャワーのお湯が心地いい。 「う…………うう…………」 お湯が溜まった頃、オレは膝を抱えて泣いていた。妹への罪悪感だとか環境に対する絶望感などに身を窶していると、気が付けば三十分以上の時間が過ぎていた。慌てて髪と顔と身体を洗って浴室を出る。さっきまで身に付けていたトランクスとランニングをまた身に付けて、ジーンズとフリースと鞄を抱えてキッチンとトイレを抜けて、我が家最後の部屋である兄妹部屋の扉を開ける。 重たい扉を閉めると、そこは三畳間だった。フローリングの床に、小さな丸形の卓袱台。その奥に畳まれて重ねられた二組の布団があって、小さな窓があって、それだけだった。母親にはカーペットやカーテンを与えるという発想がなかったし、オレと妹にはそんな母親に家具をねだるような度胸がなかった。 その妹が洗濯して畳んだのだろう、オレは布団の上に置いてあったパジャマに着替えてジーンズとフリースの一張羅を壁にかけた。それから鞄の中からマフラーを取りだして、しばらくその編み目を撫でていた。元に戻して通知表を取り出す。 その薄い灰色の数字を穴が開くほど見つめたあとで、指先の震えに気付いた。 「これは大丈夫なのか…………?」 一学期の通知表だってネチネチと小言を言われたにも関わらず、今回はその前学期より成績が落ちていた。平均学力が向上した為、なのだろう。塾に通っているわけでも補習を受けているわけでもないオレに取っては、これが限界だった。 嗚咽のような溜息を吐くと、襖の開く音がした。 兄妹部屋の扉が開かれる。 「時雨―――」 「…………」 髪を乱した妹が、静かに扉を閉めて俯いた。 妹。妹。 黒朱鷺時雨。 平均よりずっと低い背丈。 骨が浮くくらいに痩せ細った身体。 病的に白い身体とは対照的な黒すぎる黒髪は、胸元まで伸びている。 死神のような女の子。 「―――母さんは?」 「怒り疲れて眠ってしまいました」 言って、妹は自分のパジャマを抱いて「お風呂を浴びてきます」と言った。 「あ―――夜ご飯は、コンロの上にありますから」 「分かった」 オレは妹と一緒に部屋を出て、後ろで裸になる妹の肋骨を盗み見しながら鍋を温めた。冷蔵庫の中にあったうどんと一緒に煮込む。完成品を兄妹部屋の卓袱台で食べてコンロの上に戻すと、妹がお風呂から上がるところだった。その未熟児の身体をこんどは見ないようにして部屋に戻る。 少しするとパジャマ姿の妹も部屋に戻り、それからオレの使った食器を洗った。そのあとで「先に寝ていいですか」と聞いてきた。目覚まし時計を見れば、現在の時刻は二十時四十五分。いつもならまだオレは余裕で起きている時間だったし、妹は昼夜が逆転しているのでむしろこれからが活動時間であると言えた。それでも今日は身も心も疲れてしまったのだろう。 気疲れしたのはオレも同じだったので、一緒に眠ることにした。 「オレも寝るよ」 「…………でも、」 「なに?」 「なんでもありません…………」 妹が言いたかったことは、きっとオレの通知表のことだろう。妹の件ですっかり忘れ去られていたそれをいちいち自分から見せに行く必要はなく、また眠っている母親を起こすなんて暴挙を振るうことはオレにはできない。オレは態度で妹の言葉を押さえつけ、それから卓袱台を片付けて自分の布団を敷いた。妹がその隣に布団を敷くと部屋は殆ど埋まってしまった。 オレはそれでも明日には通知表を見せなければいけないのだろうという恐怖に怯えてなかなか寝付けなかった。すると妹が手を握ってきた。オレはてっきり甘えてくるものだと思っていたがそうではなかった。裏切ったと罵るでもなく近親相姦に目覚めるでもなく、あくまで日常の延長として。 「兄さん―――」 「夢の話を、聞いてくれますか?」 8 それは退屈な話だった。妹の小学生時代が反映された世界の中で、主人公はやっぱり妹で、接する人すべてが主人公である妹に優しいという陳腐な内容だった。そこに物語性などはなく、始まりも憶えていなければ『オチ』もない、とても人に語るような夢の内容ではなかった。 「誕生日を、友達が祝ってくれました」 妹は『ハセクライチコ』という名前と『アマモリテンキ』という名前と『ヒミツユキ』という名前を挙げた。 「『よいお年を』って、お別れを告げました」 妹の誕生日はクリスマスだったかもしれない。 大切なことを忘れていた。もちろん誕生日なんて機能していない家ではあったが、流石に怒られただけの誕生日というのもあまりにあまって可哀想だったので、オレはなにかプレゼントになるようなものはないかと空いた片手で鞄をまさぐった。 「その後ろ姿に、わたしは―――」 「時雨」 「―――はい」 思えば夢語りを中断させたのも初めてのことかもしれない。オレはびくびくと怯えている妹の、その繋いでいる方の手首に『蛇のミサンガ』を結びつけた。 「誕生日プレゼント」 「え?」 「やるよ。今日、キャッチャーゲームで取ったんだ」 それは元はと言えば那々のお金で、彼女のクリスマスプレゼントのほんのついでに過ぎなかったが、妹は見て取れるほど動揺した。まさか誕生日を祝われる日が来るとは思わなかったのだろう。しばらく泣いたあとで、妹は涙声でお礼を言った。 「一生大事にします」 「それ、ミサンガなんだけどな」 「夢を込めなければ…………」 「それじゃ目的と手段が入れ替わっているじゃないか」 暗闇の中でそのカタチを確認しようと、妹はオレと手を繋いだままその細すぎる手首を凝視した。しかし暗闇さえ関係なく妹の視力は極端に低かったのでそれは叶わなかった。あるいは蛇をモチーフにしていることなど言わない方がいいのかもしれない。空いた手でミサンガを撫でて、キスをしていた。オレはその姿を見て、神に祈っていた那々のことを思い出した。それは、つまり。 「それで、どんな願いを込めるんだ?」 オレは自分でも驚くほど優しい声で聞いた。 妹は悩んで、それから言った。 「この世界が消えてなくなりますように」 翌日、その願いは叶った。 (lp2-4.html/2006-12-24) /05 ウサギノトケイへ |
Aristocracy in Wonderland
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