カーネーション
ノベルCS>空の詩[ブライド・イン・ジ・エアー]
Bride in the Air[Last Love Song]
  0

 ―――たとえ、すべてが嘘だったとしても。

  1

 昔々あるところに目の見えない女の子が居ました。女の子はそのことで母親に捨てられた過去を持っていたので、甘えることに貪欲でした。甘えさせてくれそうな人を見定めては媚びを売るというペットのような生き方を体現した女の子は、そのまま成長していれば誰かに飼い殺しにされていたことでしょう。
 それでも彼女には弟が居ました。そして弟は女の子のことが大好きだったので、身の回りの世話を買って出ました。女の子の口に料理を運んでは、腕を組んで外を歩きました。尽きることのない対話に付き合いました。かくしてふたりは、共依存という物語を孕みました。
 それで終われば、悲劇は産まれなかったのに。
 甘えてばかりの女の子は、優しくて優しい男の子に言いました。
「私ばかりが甘えていて、不公平だって思ってるよね?」
 それは舌打ちを禁じ得ない、拗ねた意見でした。男の子は障害者と健常者の溝を垣間見て、居たたまれなくなりました。大人しく甘えてくれるのなら幸せになれたのに、女の子は自分のことを荷物だと言う。自分のことを負担だと自称して、背中を向けて、それでも頭を撫でて欲しそうにする面倒くさい女の子。
 それでもそんな女の子のことが大好きな男の子は健気に考えて、そして答えを得ました。
「それはそれなら、僕も障害者になれば対等じゃないか」
 ―――そして男の子は一回目の交通事故に遭いました。

 昔々あるところに耳の聞こえない男の子が居ました。男の子は十四歳の夏休みに聴力を失い、そして喋ることもなくなりました。それでも男の子には明朗快活な姉が居たので、彼女の後ろに隠れていれば友たちに歓迎されました。対話のログは、明るくて明るい女の子が掌に文字を書くことで伝えてくれました。
 そしてふたりはいままで以上に寄り添って、共依存という物語を完成させました。ふたりきりで閉じてしまった姉弟は、それはつまりは世界のすべてを敵に回してしまったということなのだと気付いているのでしょうか。寄り添った隻翼の鳥たちは、それが故に誰からも仲間だと思われないことに気付いているのでしょうか?
 優しくて優しい男の子は、自分にだって優しかったということなのでしょう。
「でもいいさ。許されない嘘だって貫いてやる。ソラがそう望むのなら―――」
 女の子のことを自己中心的であると評価した男の子は他者に依存するパラサイトであり、行動のすべてを人の所為にする矮小な男でした。後悔ばかりしているところの彼は、その責任を女の子に押し付けました。
 そして罪悪感の分だけ優しくなった男の子は甲斐甲斐しく女の子に尽くしました。
 ところがそのことに違和感を憶えたのか、あるいは全然関係ない物語が働いたのか、女の子は男の子にあまり甘えなくなってしまいました。それは共依存という物語の終わりでした。姉弟という関係の、終わりでした。
 男の子の視線から見れば、それはきっと罰だったのでしょう。
 罰。後悔。許されない嘘。
 世界のすべてが君の敵。
 それはつまり、男の子の耳は――――――

  いつかどこか、男の子と女の子が居ました。
  男の子の耳は音を捉えません。
  女の子の目は光を映しません。
  ふたりはお互いにお互いを支える、童話のように優しい姉弟でした。

  いつかどこか、女の子と男の子が居ました。
  女の子の目は光を映しません。
  男の子の耳は音を捉えないなんて嘘。
  支えられてばかりの女の子を庇う、童話のように優しくて残酷な嘘。

 ―――そして男の子は二回目の交通事故に遭いました。

  2

 鳥の鳴き声。ベッドの軋む音。君の声―――「あと七分だけ寝かせて?」
 水の跳ねる音。水道の栓を閉じる音。シスターの声―――「おはよう。これ、並べておいて貰おうか」
 祈りの声。食器の音。君の声―――「盲目の使用人でした」
 扉を開く音。裾を引っ張る音。君の声―――「車椅子日和だね」
 衣擦れの音。誰かの足音。番長の声―――「よお、マイハニー」
 戸を開く音。人の声。クラスメイトの挨拶―――「おはよう」
 ノートを開く音。黒鉛を擦りつける音。君の声―――「なにしてるの?」

 雨の音。教室の喧噪。君の声―――「ごめん。傘、貸してくれる?」
 ふたりの足音。他人の足音。君の呟き―――「二年三組二十六番……」
 君の足音。木をこする音。君の声―――「……これ?」
 タップの音。雨の音。君の声―――「あ―――忘れてた」
 雨の音。雨を弾く音。他人の声―――「おい、見ろよアレ」
 雨の音。雨を弾く音。他人の声―――「最近の若い子は遠慮を知らないのか」
 傘の落ちる音。君の倒れる音。君の声―――「え―――?」
 僕の足音。猫の鳴き声。君の声―――「シド?」
 車の通り過ぎる音。石垣に激突した僕の音。君の―――

 ――――――「…………?」
 ――――――「なにこれ……?」
 ――――――「どうして?」
 ――――――「きゅ、救急車……!」
 ――――――「早く……早くしないと……!」
 ――――――「誰か、誰か助けてよ……!」
 ――――――「……………………」

 ――――――「――――――!?」
 ――――――「待って」
 ――――――「弟が……」
 ――――――「最寄りの病院は―――桜色病院か」
 ――――――「この子、こんどはすごい熱だ」
 ――――――「ああもう、いつまで赤なんだよこの信号!」

  3

 頭が割れるような痛みの中、シドは目を醒ましました。
 そこはいつかの病院でした。
「シド……?」
 隣には点滴を垂らしたソラが座っていました。
 頭には氷嚢を乗せていました。
「目が覚めたんだよね?」
「うん」
「もう、心配したんだから。私はてっきり車に轢かれたのかと思ったよ」
「いつかの先輩のように、石垣に頭をぶつけただけさ」
「分かってたんだ。それでも頭を四針縫う怪我―――って、あれ?」
 ソラは氷嚢の位置を直しながら考えて、それから氷嚢を床に落としました。
 そして言いました。
「シド―――声、取り戻したの?」
「みたいだね」
「…………!」
 ソラは大がかりな演劇のように動揺して、それからシドのベッドに縋り付きました。
 いつかの再現のようにソラの頭を撫でて、そしてシドは顔を上げました。
 そこには他の患者を診ている医者が居ました。
「頭の同じ箇所を強打したことによる、聴力の回復だね」
「へえ、そうなんですか」
 シドは適当に頷いて、そしてふたりは笑い合いました。

 聞けばシドより高熱を出していたというソラを寝かしつけて、シドは自分の病室に戻りました。
 姉弟を助けてくれたという運転手の連絡先を渡されて、お礼の言葉は姉に任せようとシドも眠りに就きました。
 ふたりは同じ夢を見ました。

  4

 信号機のように真っ赤な世界で、姉と弟は
 ソラとシドが、向き合いました。
「あれ? 見える……」
「お姉ちゃん」
「あ、シドだ」
「ソラの所為なんだからな」
「え?」
「本当は嘘だったんだ」
「なにが―――」
「耳が聞こえないということが」
「―――嘘」
「本当」
 そして弟は姉に
 シドはソラに、背中を向けました。
「私の為?」
「そうだよ」
「そっか」
「ソラが孤独は嫌だと言ったから」
「だって、孤独は嫌だよ」
「え?」
「ありがとう、シド」
 言って、姉は弟の
 ソラはシドの身体を、後ろから抱きすくめました。
「許されない嘘を吐いた」
「でもだけど、私たちはふたりきりなんだよ」
「ふたりきりで生きていけるわけないだろう!」
「それでも、この世界はふたりだけのものなんだよ?」
「…………」
「世界の外側のことは、すべて私がやっておくよ」
「ソラ?」
「だから、私の傍に居てくれる?」
 甘くて甘い姉の言葉に、弟は
 シドは――――――
「僕はソラのことが好きなんだ」
「私もシドのことが大好きだよ?」
「高校生になっても、大人になっても、ずっと一緒に居たいんだよ」
「それはきっと、思っているよりずっと難しいことだと思うよ」
「大丈夫。僕がお姉ちゃんを護るから―――」
 その言葉を聞いて、姉は悪戯っぽく笑って、そして弟の背中に背中を預けました。
 指先だけを絡めて、正反対の方向を見つめて、そして―――真っ赤な世界は、終わりを告げました。

  5

 冬が終わり、春になりました。
 中学三年生に上がる春休みのこと、ふたりは番長の合格祝いに隣町の歓楽街を目指しました。
 杖を使って器用に歩くソラの横を歩きながら、シドはノートを抱えていました。
「なに持ってるの?」
「―――ん?」
「なにか抱えている気がする」
 視力を失ってから向こう、誰がなにをやっているのか分かるようになってきたという盲目剣の使い手になってしまったソラが聞きました。
「秘密」
「ノート?」
「さあね」
 やりにくいなあと思いながら、それさえも予定調和。
 手の内を明かさないという新しいアプローチを覚えた弟は、まるで恋人気取りでした。
「よう。来てくれたか、キョウダイ」
 そう言って現れた番長とは、また一波乱起こりそうな三角関係ではありますが。
 それはきっと、この物語とは比べものにならないくらいにハッピーエンドの物語になることでしょう。
「カラオケでいいよな」
 言って先導する番長の後を歩けば、程なくしてカラオケBOXに辿り着きました。
 うめこぶ茶を注文する番長に驚きつつ、ふたりはジンジャーエールを注文しました。
「いっちばーん!」
 番長はベートーベンの第九をアレンジしたような曲を選んで、ひとりで熱唱しました。
「それなら私はコレ」
 ソラはふたりでバンドと名乗るバンドの最新譜を選んで、番長とふたりで熱唱しました。
 そして―――

「また懐かしい曲だな」

 シドは四年ほど前の流行歌を登録して、マイクを握りました。
 そしてモニターの前に立って、モニターに背を向けて唄い始めました。
「シド…………」
 それは聞いているこっちが恥ずかしくなるような、替え歌でした。
 内容は―――空が泣き、空が巡る愛の歌。
(cs1-5.html/2006-12-14)


/空の詩[ダイアログ・イン・ザ・ダーク]
Complete Story[1]
Title
01 ブラインド
02 ディスコミュニケーション
03 オーフェン
04 デフ・ミュート
05 ブライド・イン・ジ・エアー
06 ダイアログ・イン・ザ・ダーク
/コンプリートストーリー