カーネーション
ノベルCS>空の詩[オーフェン]
Bride in the Air[Orphan]
  0

 女の子の目は光を映しません。

  1

 原初の記憶は母の涙。
 一歳に満たない僕をバスケットに入れて、それからすぐに居なくなった。
 記憶は飛んで、気付けば僕は神父に抱えられていた。
 彼の腕には、既に赤子が。
 それが僕と彼女との初会合。
 それはつまり、僕と彼女は―――

 それからまた記憶は飛んで、三歳になった。
 僕たちは教会の神父とシスターに育てられた。
 見渡せば、同じ孤児の子供たちがたくさん居た。
 聞けばここは教会というより孤児院として機能しているのだとか。
「シドちゃん」
 彼女が僕の名前を呼んだ。
「なに? ソラ」
「お姉ちゃんって呼びなさいって言ってるでしょー」
「僕はソラのきょうだいなんかじゃ―――」

 記憶は飛んで、小学生になった。幼稚園には行かなかった。当たり前のように姉と一緒に登校した。
「めがねめがね」
「……ベルトに引っかかってるよ」
「どうしてこんなところに!」
「僕が聞きたい」
 姉は底抜けに明るかった。僕とは似ても似つかなかった。
 それはつまり、僕と姉は本当は姉弟なんかじゃないということだった。
「誕生日」
「ん?」
「ソラの誕生日、いつだっけ?」
「十月一日、眼鏡の日だよ」
「僕は三月三日、耳の日だ」
「知ってるよ?」
「姉弟なんかじゃないんだ」
「…………知ってるよ?」
 姉は答えた。
「教会の子は、みんなきょうだい」
「…………それなら」
 僕は言った。
「それならどうして僕だけ弟扱いするの?」

  2

 姉は教会でも学校でも持て囃された。対話の技術が図抜けて高かったのだ。加えて男子に混じってバスケットボールをやるほどの運動神経を持ち、成績も一軍クラスだった。季節に三回恋の告白を受けていた。
 対して僕は季節に三回くらいしかまともに喋らない木偶の坊だった。唯一の例外は姉だけで、彼女はそんな僕に自分の友達を紹介してくれた。かくして僕たちには「共通の友達しか居なかった」。
 そのように季節は巡り、僕たちは小学四年生になった。そこから先のことは殆どすべて憶えている。いずれ忘れることだって、いまは鮮明に思い出せる。これは僕が僕である為の、始まりの物語だ。
 なにもかもが順調であったところの姉は、しかし人知れず悩みを抱えていた。他人の知らない悩みは弟である僕に打ち明けられた。眼鏡をかけてもあまり物が見えなくなったと姉は言った。姉は生まれたときから視力が低かったが、最近になってその低下が著しい。それは視力という数値では測れない病気なのかもしれなかった。けれど子供であった僕たちはどうすることもできず、姉の成績は低下した。
「新しい眼鏡を作ってもらったら?」
「でもこれ、買ってもらったばかりだから」
 そう言っている内に夏休みになり、その頃には姉は人の輪郭を捉えることさえ出来なくなっていた。眼鏡にはもうなんの意味もなかった。階段を踏み外しては洗濯物を取りこぼす姉の姿を見て、神父とシスターは姉を病院に連れて行った。
 遺伝性の視覚障害が認められた。
 あと二ヶ月ほどすれば完全に視力は失われるだろうと、医者は魔女のようなことを言った。
「―――うっ、ひっく……」
 姉はひとり夜の帳で泣いていた。僕は背中を丸めた姉の横に座った。見れば姉は眼鏡をかけていなかった。同じ部屋で暮らしているのに、眼鏡を外している姉の姿は新鮮だった。
 そしていまさらのように僕に気付いた姉は、か細い声で言った。
「誰?」
 僕は黙り込んだ。それから姉の、孤児特有のか細い腕を掴んだ。それだけで小さく震える姉が哀しかった。
「シド?」
「うん」
 僕は言葉を続けることが出来なかった。季節に三回くらいしかまともに喋らない木偶の坊は、気の利いた言葉なんて持ち合わせていなかった。鳴かない喉など焼けてしまえばいいと思った。
 それでも姉は、こんな僕を求めてくれた。
「   」
 言って、姉は僕のお腹に顔を埋めるようにして抱きついてきた。言葉は聞き取れなかったけれど、それはきっと意味を成した言葉ではなかったのだと思うことにした。姉はまるで赤子のように甘えた。僕は姉の不安を汲まず、ただただ昂揚してしまった。どうすればいいのか分からずに、とりあえずその小さな頭を撫でていた。
「…………」
 姉は声を押し殺して泣いていた。姉の体温が伝わって、おへその辺りが温かかった。見れば細く頼りない身体だった。とても男子に混じってバスケットボールをしていた女の子には見えなかった。
 見上げれば満天の星空だった。それでもそれは姉にはもう見えないのだと思うと、涙で正視することが出来なくなった。目を手で塞いで、くつくつと泣いていると、やがて姉が顔を上げた。嗚咽で泣いていたことに気付かれてしまったのだろう、微かに首を傾げて、それから少しだけ笑った。
「部屋に戻ろっか」
 姉は言って、立ち上がった。僕は姉の前を歩いて誘導した。二階の窓から誰かが覗いていた気がした。

  3

 次の日、シスターはいつもより一時間早く僕たちを起こした。この煙草を吸い終わるまでの間に顔を洗って外行きの服に着替えろと彼女は言った。言われたとおりにした僕たちはシスターの手によってワゴン車に詰め込まれて、最寄り駅で降ろされた。
「一万円をくれてやる。お釣りは返せよ。あと夜ご飯までには帰ってくること」
 言って、シスターは車に乗り込んで来た道を戻っていった。正直に言えば僕の脳が覚醒したのはこの頃だ。シスターは大体あんな感じの人だったけれど、今回は加えて意味が分からない。僕は寝惚け眼の姉に相談した。シスターなりに慰めてくれたのかもと姉は言った。
「ふたりで遊んでこいって意味だよ、きっと」
「そんなこと言われても、行きたいところなんて……」
 ―――いや、これは僕の為の機会じゃない。
「お姉ちゃんはどこに行きたい?」
 聞くと、姉は現在時刻を聞いたあとで、たっぷり躊躇ってから言った。
「海に行きたい」
 この県には海がなかったので、県から出たことのない僕たちは海を見たことがなかった。それは名案だと思った僕は早速切符を買って、姉の手を引いて電車に乗った。座席には座れなかった。衆人環視の中、姉はずっと眼を瞑って僕の腕を掴んでいた。それは視力とは関係なく、ただの電車酔いだった。サラリーマンが優しい眼を向けた。おばさんが怪訝に眉をひそめた。僕はすべてのすべてを無視して姉の背中を撫でた。姉は幼い子供のように僕に縋った。僕は姉の前でなら男らしくあることが出来た。
「降りるよ」
 一時間ほどして降りた。お腹が空いたというので蕎麦屋に入った。姉はお椀に入った熱い方の蕎麦を注文した。その方が食べやすいからだろう。蕎麦が届いてから姉に割り箸を渡した。程なくして食事を終えた。初めて飲んだ蕎麦湯は感動するほど美味しかった。これからはもっと積極的に蕎麦屋に入ろうと思った。
 そしてまた電車に乗った。乗り継いで海に着いた。来れば意外と近いもので、まだ午前中だった。
「眩しい……」
 そこは海沿いの森林公園だった。太陽の光を受けて水面と木々が輝いていた。
 僕は自動販売機で売っていたインスタントカメラを買って、それを姉に渡した。
「盲目のカメラマン?」
 姉は笑って受け取った。その真意を聞かなかった。恐らくは分かっていたのだろう。シスターは姉に好きなものを見せてあげたくて、なけなしのへそくりを渡したのだ。僕は姉と同じ視点で物を見たくて、だから写真に取って欲しかった。最後の風景を二十七枚のフィルムに収めて欲しかった。
 だっていうのに、姉は僕ばかり撮っていた。悔しかったので僕も姉の写真を撮ったりした。かくしてそれは、ありふれた姉弟の写真になってしまった。そのことに落胆していると、姉が言った。
「焦らなくてもいいんだよ?」

「世界が綺麗だなんてこと、私はもう知っているんだから」

  4

 そして世界が真っ赤に染まった。
 姉は波打ち際に歩いていった。
 それは赤子のような歩き方だった。
 それでも僕は止めなかった。
 姉は硝子の靴のお姫様のように、ステップを踏んだ。
 それから姉は歌を唄った。
「――――――♪」
 それは女の子の唄う流行歌だった。
 対話の技術が図抜けて高い姉は、それはTVばかり観ていたからで。
 その振り付けは、アレンジメントも含めてとても綺麗だった。
「――――――♪」
 それはどこか遠くの世界に行かなければならなくなった旅人が、この美しい世界と愛していた人を目に焼き付けて、それを慰みに永遠を生きるという物語を孕んだ歌だった。その寓話と自分の境遇を重ねて、かくして姉の心理は他の誰かも通過した地点であるということを認識して、孤独を吹き晴らしたのだろう。
 僕は、歌い終えた姉の手を取った。
「ソラ」
 姉は―――ソラは、名前を呼ばれたことに疑問符を浮かべていた。
 目が合って、僕は言った。
「ソラのことが好きなんだ」
 それは例えば、姉弟であることを否定したがったりとか。
「僕がソラの目になるよ」
 僕はとてもずるいことを言った。
 ソラは黙り込んだが、しかし世界は依然として赤かった。
 ソラの頬が赤く染まっているのは夕焼けのせいだろうか。
「嬉しいよ」
 言って、ソラは笑った。
 調子に乗って、僕は続けた。
「付き合って欲しいんだ」
「それは駄目だよ」
 即答だった。
「私と付き合える人なんて居ない」
「それはソラが盲目だから?」
「私が甘えん坊だからだよ」
 ソラがそう言うと、世界は元の青に戻った。
 それからソラは振ったくせに僕に甘えて、TV局やら電波塔やらに連れ回した。それはとても楽だった。ソラの元気な姿を見ていると心から楽しい気分になった。無理に恋人という関係になる必要はなかったのだと思い直した。あくまで僕は陰の人間であり、ソラの意見に従っている方が楽だった。自己中心的な人間は人の所為にしないという点を中心に見れば驚くほど魅力的だった。僕はソラのそんな部分に惹かれた。
 世界が本当に真っ赤に染まった頃、お土産を買って教会に帰った。

  5

 そしてソラは完全に視力を失った。
 それからソラはただのファッションで眼鏡をかけるようになった。
 小学五年生になった。
 教会にまたひとり仲間が加わったりした。
 小学六年生になった。
 クラスメイトの女の子の家族が学校中の男性教師を殴り飛ばしたりした。
 中学一年生になった。
 屋上に現れる幽霊と友達になったりした。
 中学二年生になった。
 三毛猫を助けようと車道に飛び出して、原付に撥ねられたりした。
 そして僕は聴力を失った。
 でもそれは―――絶望なんかじゃなかった。
 秋が終わり、冬になった。
「  」
 僕は彼女の名前を呼んだ。
 彼女は猫のように驚いて、それからゆっくり振り向いた。
「                 」
 僕はとてもずるいことを言った。
(cs1-3.html/2006-11-28)


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Complete Story[1]
Title
01 ブラインド
02 ディスコミュニケーション
03 オーフェン
04 デフ・ミュート
05 ブライド・イン・ジ・エアー
06 ダイアログ・イン・ザ・ダーク
/コンプリートストーリー
Ruby
孤児-ミナシゴ-
家-キョウカイ-
木偶-デク-