カーネーション
ノベルCS>空の詩[ディスコミュニケーション]
Bride in the Air[Discommunication]
  0

 男の子の耳は音を捉えません。

  1

 もしも弟が居なくなれば、その三日後くらいに私は死ぬと思う。それくらい私は弟に頼りきりだった。朝は食卓まで運んでくれるし、身だしなみを整えてくれる。それから私は弟の腕にしがみついて学校に行く。それは別に実は私が赤子だったという叙述トリックなどではもちろんなくて、答えはただの全盲者。
 後天性視覚障害、遺伝性。
 赤子のように周囲の状況を把握できなくなった私は、ひとりで出歩くことが出来なくなった。それはもちろん点字は読めるし杖だって持っているけれど、使う機会は殆どなかった。私には弟が居たからだ。優しくて優しい弟はどこに行くにも一緒に歩いてくれたし、共通の友達しか居なかった。私は孤独を感じることなど一瞬たりともなかったのだ。
 だから問題は、大人になってから発生する。未だ人生のスタート地点に居る私たちはそれは一緒に居られるけれど、ずっとしがみついているわけにはいかない。弟には弟の人生がある。人の生を邪魔していいのは犯罪者だけだ。私は中学二年生になってからずっとそのことばかりを考えていた。高校には行かないつもりだった。そのことを弟に言うと、彼はこう答えた。
「お姉ちゃんは、もう僕の一部分なんだよ。ふたりでひとつなんだ。離れるという選択肢はないんだってば」
 ドラマのようなことをおくびもなく言った。かくして私たちの心は本当には繋がり合ってはいないのだと思った。それでもその善意は嬉しかったし、本気で言っているのなら幸せになれるかもと思った。あと私と弟は全然似ていないなあと思った。
 それが弟の最後の言葉になった。
 ―――その日、弟は交通事故に遭った。

  2

 先輩に連れられて病院に行くと、程なくして面会を許された。聞けば怪我は利き手の骨折と軽い打撲だけだと言う。安心した私は連れられるままに弟のベッドに隣接した椅子に座った。
「大丈夫か? 弟くん」
 先輩が聞いた。返事はなかった。
「嫌われたものだ」
「先輩の声は怖いから」
 私は言って、それから弟の名前を呼んだ。返事はなかった。
「どうしたの? 痛くて、喋れないの?」
 返事はなかった。私は弟の存在を疑った。
「仕方のない奴だな」
 言って、先輩は鞄の中をまさぐった。恐らくはノートとペンを弟に渡したのだろう。それから先輩は黙り込んだ。沈黙が心地悪かった。静寂はやがて先輩の声によって打破された。
「―――なにも聞こえない?」
 それから紙のやり取りが続き、私は蚊帳の外だった。それでも私は大体の事情が飲み込めた。そんな友達が居たからだ。
「ちょっと待った。医者を呼んでくる」
 言って、先輩は駆けていった。残された私は弟に話しかける。
「そこに居るんだよね」
 私は未だ弟の存在を確認していなかった。本当は先輩のひとり芝居だったという可能性を否定できなかった。話しかけても返事はなく、私は強烈な孤独を感じた。それは盲目になる前後にさえ匹敵した。
 それから程なくして私たちは個室に通された。そこで医者は説明してくれた。
「頭部を強打したことによる聴覚障害が見られます。中途失聴者には回復するものとそうでないものがありますので、しばらくの間入院して様子を見ることをお薦めします」
 頷いて、私はまた弟の病室に戻った。聞けばそこは六人部屋だった。先輩に医者から受けた説明を紙に書いてもらって、それをそのまま弟に見せた。それから大丈夫だよと声をかけた。根拠はなかった。内心不安でいっぱいだった。そしてそのとき、私は声をかけても届かないことを忘れていた。
 それから私は車椅子を借りて、先輩に押して貰って家路に着いた。その夜、とても嫌な夢を見た。

  3

 次の日になった。それは夏休みの始まりの日だったので、先輩に電話して送ってもらうことにした。彼は二つ返事で頷いてくれた。先輩には迷惑をかけ通しだ。私は車椅子の上に乗せられて病院に行った。
 迷惑ついでに、私の声を紙に移してもらった。俺の字は実は綺麗なんだぜと先輩が嘘を吐いた。
『骨折は? 不便じゃない?』
 大丈夫だってさと先輩が言った。どうやら弟が首を振ったらしい。
『左手じゃご飯が食べにくいね』
 スプーンで食べてるから平気だってさと先輩が言った。かくして彼は通訳になった。
『部屋のみんなと、仲良くしてる?』
 みんないい人だってさと先輩が言った。それは良かったと私は言った。適当に言った。
 ―――そして私は気付いてしまった。
「先輩」
「なにか?」
「お願い。外で待ってて」
 先輩はものすごく心に傷を負ったようなオーラを発して、それから涙声で「分かった」と言った。駆けるように病室を出て行った。もう少し言い方を工夫すれば良かったかなと後悔した私は、しかしそんなこと二秒で忘れた。
 そして私は弟に言った。
「あなたの感情は、顔と文字でしか表現できないんだね」
「…………」
「私には見えないよ……」
「…………」
「私の声だって、届いていないんだよね?」
 最後の言葉は上擦ってしまった。自分の声が涙声で吃驚した。目頭が熱くなった。泣いていたかどうかは確認しなかった。私は弟の名前を呼んだ。当たり前のように返事はなかった。かくして私たちは違う世界の住人になってしまった。
 それはひどい絶望だった。盲目と聾唖という組み合わせは最悪だった。
 それでも私は続けて言った。
「私たちは―――ふたりでひとつなんだって、言ってたよね」

「私があなたの耳になってあげるよ」

  4

 それは吐き気がする程先の見えていない発言だった。心の込もっていない言葉だった。障害者が障害者を支えることなど出来はしないのだ。私は弟が入院してから一度だって彼の存在を認識していない。コミュニケーションのそのすべてを言葉に頼った私は、言葉を失った弟の存在を「認識」できないのだ。もしかしたらベッドの上には人形が座っているのかもしれない。もしかしたらここは病院なんかじゃないのかもしれない。もしかしたら私なんて初めから存在しないのかもしれない。
 私はいまさらになって盲目であるということのその障害を意識した。それは耐え難い恐怖だった。腕の震えが止まらなかった。狂気で脳が壊れるんじゃないかと思った。私は弟を通して世界を見ていた。弟が居なければ、この世界は言葉通りに存在しないも同じことなのだと「体感した」。
「う……うう……」
 もしも弟が居なくなれば、その三日後くらいに私は死ぬと思う。それくらい私は弟に頼りきりだった―――なんて、ケーキのように甘いモノローグ。私の目は節穴だった。私は弟を亡くしては一日だって生きていけない。餓死する前に自殺する。いままで弟がしてくれたことは、私が思っていたよりずっとずっとすごいことだった。
 優しい言葉をかけても伝わらないように。
 彼の気遣いだって、私には伝わっていなかったのだろう。
 それは例えば、車に轢かれそうになったとき。それは例えば、腕を組む姉弟を奇異の目で見る他人たち。そのすべてから、弟はなにも言わずに護ってくれたのだといまさら気付いた。私の障害は私が思っているよりずっと重たいものだった。支えてくれる人を失ってからそれに気付いた。
「うぇぇぇぇ……」
 気付けば泣いていた。涙腺は一丁前に生きていた。障害を負って混乱しているのは弟の方なのに、その弟の前で泣いた。習慣は簡単には直らなかった。私は依然として甘えることしか知らなかった。私は本当は赤子なのではないかと思った。弟の人生を邪魔しないようになんて消極的な考えばかりして、私が弟を支えるつもりなんて微塵もなかったのだ。こんな未来は想定していなかった。私はいつだって自分のことばかりだった。自己嫌悪で泣いた。絶望で泣いた。夢なら醒めて欲しいと思った。現実なら殺して欲しいと思った。私は世界を見失った。私は私を見損なった。涙と嗚咽と震えと狂気で、私はひどく醜い姿をしているのだろうなとふと思った。
 そんな私の腕を、誰かの掌が掴んだ。
 それは医者か看護婦か、あるいは先輩だったかもしれない。
「…………」
 誰でもいいやと思った。舌を噛んで死んでしまおうと思った。
 それでもそれは叶わなかった。強い力で引き上げられて、ベッドの上に乗せられる。
「―――え?」
 ベッドの上に、乗せられる。ベッドの上。ベッドの上?
 膝元に、体温。
 胸元に抱き寄せられる。
 私は―――弟の名前を呼んだ。
「シド?」
「…………」
 返事はなかった。片腕の抱擁だけがあった。それで十分だった。私は骨折している右手に触れることを躊躇って、動けなかった。弟の鼓動を感じた。弟の息遣いを間近に聞いた。そこに興奮などなく、ただただ落ち着いた。黒い気持ちが癒されていった。世界は依然としてそこにあったのだと知った。
「ん?」
 弟の指が私の背中を撫でた。
 それは―――
『なかないで』
 それは文字だった。
 弟は、左手で、左右逆さまに、平仮名を書いていた。
『ソラ』
 弟は、私の背中をいっぱいに使って意志を伝えた。

『ぼくはここにいるよ』

  5

 それは盲目と聾唖の姉弟に許された、たったひとつの対話だった。視覚と聴覚を失っても―――まだ三つも感覚は残っている。世界を失うにはまだ早い。私は弟の存在を確かに認識したのだ。
 私は弟の薄い胸板に頬を擦りつけた。それから返事を書こうと思ったけれど、怪我人に抱擁されている私は動けなかった。仕方がなかったので舌を尖らせて胸板に返事を刻む。……構図を想像するのはやめて欲しい。舌触りはあくまでシャツの味で、だから問題はないはずだ、と、思う……。
『ありがとう』
 その舌文字に、弟は頭を撫でてくれた。その安らぎに永遠を感じた。私は依然として甘えん坊で、弟の聴力は依然として戻らなかったけれど、これが姉弟の幸せのカタチなのかもしれないと思った。
 そのまま眠ってしまいそうになったとき、誰かの絶句を聞いた。それは先輩だった。赤子の泣き声のような声を出したあとでまた病室を去っていった。同室の患者に迷惑をかけ通しの三人だった。

 夏が終わり、秋になった。それからすぐに骨折を完治させた弟は晴れて退院を許された。ただし聴覚は戻らなかった。医者が匙を投げたという奴である。
 その医者が言うには、視覚障害より聴覚障害の方が社会復帰は難しいらしい。音のない世界を想像して、それはあまり上手くいかなかった。耳を塞ぐ機会が少ないからだろう。
 受付で診察券が返されるのを待っていると、誰かに声をかけられた。聞けば病院の事務員らしい。
「この車椅子、よかったら貰ってやっておくれよ。新調するから破棄しろって言われてさ、勿体ないからね」
 それは先輩が私を運ぶのによく借りていたものだった。私はお礼を言って車椅子に座った。それから受付に名前を呼ばれたことを弟に伝えると、弟は私ごと車椅子を押して受付まで歩いた。
 病院を出ると、弟はそのまま車椅子を押し続けた。タクシー代は渡されていたけれど黙っておくことにした。リハビリテーションだ。先輩より優しい運転で、程なくして私たちは「家」に戻った。車椅子を片付ける。手を洗う。姉弟部屋に戻って一息つく。
 そして私たちはあらゆる常識を無視して互いの身体に触れ合った。
『がっこうはどうする?』
『あしたからいくよ』
 弟は迷いのない筆跡で答えた。障害者を多く抱えた琥珀色中学校には視覚に依存した授業内容もたくさんある。問題は平均より少ないけれど、それにしても弟はあまり動揺していないように思える。
『おくれをとりもどさないとね』
 驚いたことに、弟は未だ進学を諦めていなかった。私と同じ高校に行きたいと恥ずかしいことを平気で告げた。感動した私は、私もちゃんと勉強しますと神に誓った。
 そのとき、階下から私たちを呼ぶ声がした。
『みんながよんでるよ』
『いこうか』
 弟がいつも通りに私の腕を引いて、食卓についた。そこではささやかな退院パーティーが開かれていた。みんながみんな弟の身体をくすぐった。おめでとうと書き込んでいるらしい。
 そんな拷問から解放された弟に、私は『ありがとう』と書き込んだ。
(cs1-2.html/2006-11-26)


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Complete Story[1]
Title
01 ブラインド
02 ディスコミュニケーション
03 オーフェン
04 デフ・ミュート
05 ブライド・イン・ジ・エアー
06 ダイアログ・イン・ザ・ダーク
/コンプリートストーリー