カーネーション
ノベルリトルプラネット>赤い雨と毒のミサイル
First Days
  1

 姉に起こされて母の作った料理を食べて父と一緒に家を出ると、空には暗雲が立ち込めていた。勇者ではなく中学生、それも二年生の二学期という最も充実した時期に差し掛かっている僕は、大人しく琥珀色中学校を目指すことにする。
 琥珀色中学校。
 町の真ん中に位置する琥珀色の学舎は築九十九年の古い木造建築で、だっていうのに千人の生徒を抱えるマンモス校だった。私服登校、非給食制。外国人と障害者が数多く通う、生徒の自主性を過剰なまでに重んじる私立中学校。
 その琥珀色を北門から出ると森と山、西門から出ると病院と住宅街、南門から出ると商店街、そして東門から出ると団地へと繋がる。描写を省略してしまったが僕は団地住まい。東門をくぐって、琥珀色中学校に到着した。
 到着してしまったからには町の描写は後回しにしようと思う。団地から学校までの距離はそれほど短いということだけ伝えることができれば十全で、万全だ。
 昇降口で上履きに履き替えて、二年二組の扉を開ける。
 そこには銀色の髪のドイツ人が居て、どうやら彼が一番乗りらしい、いつものように学ラン姿で勉強をしていた。私服登校と言っているのに公立校の制服を着ている彼は、要するに学校のことが好きなのだろう。そしてクラスで一番大きな身体で格闘しているのは予習や復習では有り得ない、大学でも受験するような数学の問題だった。一般的な成績であるところの僕にはよく分からないけれど、あるいはそれは研究と呼べる範囲なのかも知れない。
 それはそれとして。
 まずはご挨拶。
「おはよう、天城くん」
「ああ、おはよう。グーテンモルゲン!」
「取って付けたようなドイツ語だね」
 訂正、正確にはドイツ人と日本人のダブルであるそうだ。日本に産まれて日本人に育てられた彼はドイツ語をマスターしていない。数学の研究に取りかかるくらいならまずは祖国の言葉を憶えればいいのにと思わないでもないが、色々あるのだろう。
 ともあれ、ダイアログ展開である。
「天城くんが一番乗りなのはいつも通りとして、僕が二番目なのは珍しいね。初めてのことかもしれない」
「なにか用事でもあるのか? 勉強なら見てやるぞ?」
「それはありがたいけど、残念ながら勉強をしたい気分じゃないんだ。というより、よくこんなときまで勉強できるよね、天城くん」
「こんなとこだからこそ、だな。師が居ないからという理由で鍛錬を怠ると、師が居るときにしか戦えなくなる。それはそんなのは、ただの飼い犬じゃないか」
「それはご立派。それなら僕は、さながらパブロフの負け犬かな」
「条件反射で教室に来たのか?」
「そういうこと。そしてやることを見失って、時間だけが残ったよ」
「それなら脚本を書くといい」
「……あれ? 僕が部長に脚本を頼まれていること、言ったっけ?」
「その部長から聞いたんだ。そして監視を頼まれた」
「……はあ、信用ないなあ。これでも梗概は完成しているんだけど」
「いや、筆の速さは疑っていないらしい。監視というよりは協力だな。『恋愛マスターであるところの天城くんなら、より深いロミオとジュリエットの愛情が描けるよね?』と言っていた」
「ああ、そういうこと」
 天城くんは中学生にしては極めて珍しいことに、後輩の女の子と付き合っている。それがまた天城くんとは似ても似つかない可愛らしい女の子で、身長差は四十センチ、体重差もまた四十キロの体格差カップルだった。勉強も運動もできない劣等生らしいが、それだって十分に羨ましいと思う。中学二年生にとって彼氏彼女の関係は羨望だ。
 ダイアログを再開しよう。
「とはいえ、オレは浅学にして『ロミオとジュリエット』を知らないのだが」
「それで問題ないらしいよ。タイトルと知っている台詞から連想される、千九百九十九年のロミジュリを書いて欲しいんだってさ」
「へえ、それは面白そうだな」
「そう? 僕としては恋愛マスターである天城くんにバトンタッチしたい気分だね」
「恋愛マスターという概念はその在り方からして矛盾している気もするが、さて置きオレは寅さんにはなれないよ。別れるのは寂しいし、さくらとは血が半分しか繋がっていない」
「ロミジュリは初恋が結ばれる話だから、それでいいんじゃないの?」
「―――え? あれって別れの話じゃないのか?」
「……ごめん、分からない。お互いのロミジュリ像が噛み合っていない時点で、やっぱりシェイクスピアの知名度は極めて低いんだね」
「四百年前の話だからな。グリム童話より二百年古く、人魚姫と不思議の国のアリスより二百五十年古い歌劇だ。媒体も媒体だし、知らなくても無理はない」
「それこそ、あまり二次創作の恩恵を受けていないしね」
「だな。そうなると式の書いた梗概に俄然興味が湧いてきた。文学を見せてくれ、オレも研究の成果を見せるから」
「悪いけど天文学的数字以外の数字に興味はないよ。そして僕の梗概は文学では有り得ない。空白ばかりの、記号の羅列に過ぎないんだ」

  2

 それから―――天城くんと『ロミジュリ・ミレニアム』の序章を書いてから、僕は教室を出て部室棟に赴いた。目指すは最上階の最奥である。
 部室棟。
 生徒の自主性を過剰なまでに重んじる琥珀色中学校には、教室よりも多い数の部室がある。部活動の設立は驚いたことにふたりから可能で、顧問の先生を必要としない。それはもちろん剣道部や弓道部といった経験が物をいう本格的な部活動は別として、我らが天文部のような、娯楽がそのまま知識に繋がるような部活動は顧問の先生を必要としないわけだ。それはそのまま部長の仕事となる。
 最上階の最奥の扉を開くと、そこには天文部の部長が居た。
 眼鏡の似合う女子中学生、最上級生の月輪真宵である。
「おはよう、月輪部長」
「おはよう、地球儀式ちゃん」
 確認するようにフルネームで呼ぶ部長は、記憶障害というわけではないだろう。きっと自分と似た名前である僕の名前を噛みしめているのだろうと思う。
 僕はパイプ椅子の上に座って、部長の言葉を待った。
「式ちゃんは天城くんに対しては事細やかな描写を試みるくせに、私のこととなると『眼鏡』しか見てくれないんだね。月輪真宵は少しだけ寂しいよ」
「部室に入るなり読心術を使われるとは思わなかったけど、あるいは僕の方に独り言の悪癖があるのかもしれないね。ともあれ安心してよ。天城くんは比較対象で、本番前の練習で、だから部長の容姿は―――これから眼球に焼き付けるから」
「知り合って二十ヶ月目の新発見だね」
 照れ笑いしながらスカートの裾をつまむ部長の、その期待に応えることにしよう。センスがなく、とりわけファッションセンスというものが壊滅している僕に魅力的な説明ができるとは露とも思わないが、これも部長の為である。爪先から頭のてっぺんまでを、芸術映画のカメラになったような気持ちで観察した。
 さて、小豆色の上履きである。紺色のハイソックスに黒色の膝上プリーツスカート、白いブラウスの上に漆黒のブレザーを羽織っている。そして銀フレームの眼鏡、とどめは左右に分けた藍色の三つ編みであった。その幾度となく目にしてきた馴染みの服は、クラスメイトの天城くんと同じ印象を抱かせる。すなわち―――
「まるで制服だね。それも図書委員か学級委員の、そのどちらかな感じ」
 私服登校というシステムをことごとく破壊するふたりであった。
「残念、保健委員に立候補したよ」
「ああ、それは納得。描写を忘れていたよ。『部長は、放課後は白衣を纏っている』」
 一般的な制服姿、足すことの白衣である。おまけとばかりに月のイヤリングを嵌めていた。全体的に高級感漂うコーディネイトである。対して僕は、逆に明記する必要を失うほどの凡百な服装であった。貧富の差が伝われば十全で、万全だ。
「うん、合格かな。それだけ知っていれば、対話も円滑に運べるよね」
「服装ばかりで内面を描写していないような気もするけどね」
「そこまでは求めないわよ。天文部の部長で十分」
 言って、部長は僕と対面になる形でパイプ椅子を設置した。白衣を巻き込みながら腰を下ろす。両の拳を太ももの上に乗せる。
「事細やかな描写はもういいよ。それより、脚本は書き始めた?」
「序章と第一章の途中までだけど、天城くんの協力を仰いで書き進めているところ」
「読ませてくれる?」
 文章というものになんのプライドも持っていなかったので、素直に渡すことにした。ルーズリーフに書かれた五千文字ほどの脚本を、眼鏡の向こうから覗く部長の姿。物を見ている人を見るのは失礼だと思ったので、僕は窓際に移動してカーテンを開いた。
 外は血のように真っ赤な雨。
 そして誰も居ない町。
「読み終わったよ。小説みたいな内容だね」
 気が付けば、左肩の向こうに―――要するに隣に部長が居た。平均ど真ん中の背丈と、藍色の髪。その眼鏡に赤い雨は映っていない。
 僕は窓の外を見つめたまま、言葉を返す。
「だから言ったじゃん。脚本を書いたことは、ないんだってば」
「小説を書いたことはあるんだね」
 僕は押し黙った。小説を書いたことのない中学生なんて日本に居るのだろうか。
「正直に言って、有り体に言って、とても面白かったよ。ロミオの自己犠牲には序章から胸を打たれたし、ジュリエットは可愛い」
 ジュリエットは十三歳なのだと天城くんは言った。
 それは僕の物語と合わせると、とても哀しい不協和音を奏でる。
「でもだけど、悔し紛れにひとつだけ文句を付けるのなら―――」
 部長は呪いの言葉を紡ぐ。
「―――あなたはジュリエットの気持ちがまるで分かっていない」
 それは恋を知らない中学生にとってとても難しい課題だった。

  3

 そして教室に戻ると、放課後になった。天城くんはまだまだ残るつもりらしい。勉強熱心であることを感心しつつ昇降口まで歩くと、部長が居た。
「脚本の続き、楽しみにしているね」
「任せてよ。明日にはジュリエットを刺殺する」
「誰も死なないロミジュリを楽しみにしているね」
 それははたしてロミジュリと言えるのだろうか。考えながら上履きから靴に履き替えて、昇降口を出た。外は一転して快晴。雲ひとつない秋晴れ。
「ばいばい、式ちゃん」
「うん。さよなら、月輪部長」
 部長は僕とは反対方向の西門を目指して歩き出した。さて、ここで町の紹介をしよう。琥珀町という鳥のような蝶々のような名前を付けられたこの町は人口一万人に満たない小さな町で、この学校を筆頭に殆どの建物が古びている、過疎化した土地であった。
 東西南北の門で区画が仕切られているように、町はこの琥珀色中学校を中心に機能している。円の中に十字架を描いた町であると校歌で唄っているほどに、それは顕著だった。この町に学校は琥珀色中学校しか存在しない。
 それはつまり、これらの説明にはなんの意味も付与しないということで。
 舞台は我が家の琥珀町団地と琥珀色中学校に限られる。
 琥珀町団地。
 新旧三十号棟から成る集合住宅には、およそ二千五百人の住民が暮らしている。実に町民の四分の一が生活している琥珀色の団地は、例に漏れずあちこちが老朽化していて、特に旧団地の方は殆ど使い物にならないらしい。殆ど幽霊屋敷である。
 新団地と名付けられてはいるものの、それだって築三十年を誇る五階建ての住居に僕は暮らしていた。八号棟の三○六号室に、父と母と姉の核家族。特筆する必要のないほど有り溢れている、幸せな一家である。
 僕は幸福を自覚して、反抗期を憶えないまま育った。
 だから玄関を開けても物語は転がっていない。虐待や折檻はそこになく、あるのは「おかえり」という優しい言葉だけだ。
「ただいま、お母さん」
「おかえりなさい。テーブルの上に柿があるから、食べちゃってね」
 六等分された柿を囓りながら、テレビを点ける。
 画面は砂嵐。
「―――『北』から発射された……ミサイルは、……上空で……軍の……により迎撃され、爆発した模様です。墜落したミサイルから、海に放射性物質が―――」
 幸福から墜落することを、人は悲劇と呼ぶのだろう。

  4

 家族揃って夕ご飯を食べて、夜になった。
 お風呂に入ってから机に向かい、脚本の続きを書く。
 九百ミリリットルのレモンウォーターを飲み終えた頃、姉の隣に布団を敷いた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
(lp1-1.html/2006-09-14)


/恋の告白と遅まきのプロローグ
Little Planet
Character
天城亜狼-アマギ・アロウ-
Ruby
小豆-アズキ-
対面-トイメン-
有り溢れている-アリフレテイル-