カーネーション
ノベルリトルプラネット>恋の告白と遅まきのプロローグ
Second Days
  1

「朝だよっ」
 それはカプチーノのように甘い、うろんな声。
 そして寝惚けた黒目がちの瞳。
「早く起きないとキスしちゃうよ?」
 僕の上に馬乗りになって、ふたつ年上の姉はのたもうた。
「寝起きの細菌だらけの口でキスしちゃうよ?」
「それはお互い様というか、後悔するのは姉ちゃ―――」
 音はしなかった。
 味もしなかった。
 ただ―――柔らかいな、と思った。
「奪っちゃった☆」
 重ね合わせた唇を話して、姉は言った。
「こういうとき、唇を奪われた方はフレンチキスを返してくれるのよね?」
「人生は映画のように甘くはないよ」
 姉の鳩尾を蹴り飛ばして起き上がり、僕はトイレを済ませて顔を洗って口をゆすいだ。
 マグカップを手に居間に入ると、トーストにバターを塗る母とテレビに釘付けの父の姿。モニターが映し出すのは野球のハイライト。
 僕は窓際の座椅子に腰を下ろして、マグカップにカフェオレを作る。トーストを囓って飲み込んだ頃、姉が襖を開けて登場した。お腹を押さえている。
 父が顔を上げて話しかける。
「どうしたんだ? 生理か?」
 セクハラ親父であった。
 姉は首を振って、同じ首を傾げる。
「分かんない。朝起きたら痛くて、不思議」
「おまえは寝相が悪いからなあ」
 頭をぶつけることはあってもお腹をぶつけることはないと思うと言って、姉は自分の座椅子に腰を下ろした。リモコンを手に、テレビのチャンネルを変える。
 画面が食べ物で埋め尽くされた辺りで、どうでもいい挿話を挟もう。
 姉は二日に一回の確率で寝惚け、その際の性格は直前に見ていた夢に引きずられる。空を飛ぶ夢を見ていたときは空を飛び、世界を救う夢を見たときは世界を救う。ただしその『トランス状態』が続くのは僅かに三分間。使い勝手の悪い能力であった。
 僕のファーストキスを奪った姉は、今日は淫らな夢を見ていたのだろう。
 唇に感触を思い出しながら、居たたまれなくなって僕は口を動かした。
「お母さん、今日遅くなるからね」
「帰り道、気を付けてね」
「うん。それとごちそうさま。今日も美味しかったよ」
「? それはトースターに言いなさい?」
 甲斐甲斐しい母に笑顔を向けて、僕はバスタオルと新しい下着を手に浴室へと移動した。シャワーを浴びながら歯を磨いて、洗顔フォームを顔に擦りつけて、髪を洗って身体を磨いた。
 浴室を出て身体を拭き、下着を身に付ける。バスタオルを身体に巻きながら部屋に戻ると、そこには既に高校の制服に着替えている姉が居た。姉に朝シャンの習慣はない。
 姉は親指を突き立てて言った。
「行ってくるね!」
「行ってらっしゃい」
「お土産はなにがいい?」
「ハンバーガー屋のスマイルがいい」
 任せてと言って、姉は部屋の襖を開けて玄関を開けた。
 消える後ろ姿を見て、僕は嘆息する。
「僕も制服が欲しいなぁ……」
 ひとり呟いて、服を選ぶ。今日の「放課後の用事」のことを思うと、あまり派手な色の服を選ぶべきではないだろう。インナーを着て、姉の黒っぽいシャツを拝借して、カーゴパンツを穿いた。靴下を履いて襖越しに話しかける。
「お父さん、ジャケット貸して」
「構わないが、XLサイズしかないぞ。おまえが着るとロングコートになる」
「うるさいな。最近は、千九百九十九年はそれが流行りなんだよ」
 本当は流行なんて知らなかったけれど、そういうことにしておいた。僕の背丈はクラスで二番目に低い。服はキッズサイズしか選べない。
「これでいいか?」
 襖を開けて、父は緑色のジャケットを持って部屋に入ってきた。それは本当に大きな、僕の体積なら風呂敷の要領で包み込んでしまえそうな面積のライトジャケット。
 父は僕の肩を抱いて、ジャケットを着せてくれた。
「これは昔、極貧時代にお母さんとふたり肩を寄せ合ったとき―――」
「興味ないよ。それにこれ、見た感じ新品だけど」
「昨日デパートで買ったばかりだからな」
 嘘つき親父であった。
 いつだってこんな会話ばかりしている我が家の朝は絶望的に時間が足りなくて、僕は今日も今日とて手提げバッグに筆記用具だけを詰め込んで家を出ようとする。忘れ物の脚本を取りに戻ると、結局は出勤時間の最も遅い父と一緒に家を出ることになった。
 僕らの声と、母の相槌。
「行ってきます」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 空は再びの雨。
 青い雨を切り裂いて、僕は琥珀色中学校を目指す。

  2

 天城くんとの対話を省略して、天文部の部室。
「おはよう、月輪部長」
「おはよう、地球儀式ちゃん」
 部長は今日も変わらぬ白衣姿で、同い年とは思えない色気を演出していた。
 その唇を、ゆるやかに動かす。
「脚本の続き、書いた?」
「うん。第二章から第五章と、そして終章を書いてきた」
「……なんですと?」
 手提げバッグから三十六枚のルーズリーフを取り出して、部長に手渡した。
「それと赤ペンをあげる。書き終えた話に興味はないから、好きにしていいよ」
「ど、どうも……」
 部長は珍しく狼狽して、そしてパイプ椅子の上に跨った。再び序章から読み始める。
 物を見ている人を見るのは失礼だと姉が言っていたので、僕は窓際に移動してカーテンを開く。外は途方もないほどの戦争。いつ死ぬともしれない白兵戦。
「昨日は誰も居なかったのにね」
 隣には脚本を読み終えた部長。
「戦争は雨天決行なんだよ」
「戦争なんて、面白い言い回し」
 言って、部長は赤ペンを返してきた。
 ロミオとジュリエットについて、語る。
「一日で仕上げてきたことにも驚いたけれど、ジュリエットの台詞がすべて空白であることには芸術さえ感じたかな」
 その手抜きを、部長は笑って許してくれた。
「僕にはジュリエットの気持ちが分からないからね」
「っふふ、根に持ってる。うん、小説として見ればこれはこれで素晴らしいけれど、そういう演出として認められるけれど―――これは演劇だから」
 言って、ルーズリーフを広げる部長。
 赤ペンは正しく機能した。
「月輪部長、字、綺麗だね」
「小説を書いたことのない中学生なんて、少数派でしょ?」
 そんなことはないと思うと言うと、部長は僕の耳を引っ張った。
 誰もがみんな加害者だ。
「はぁ……式ちゃんって、虐められる為に存在している感じよね」
「それは全国のチビッ子に失礼だ」
「よしよし」
 人の頭を撫でる部長。
 正直に言えば心地いい。
「それでも僕らには、時間が足りない」
 僕は部長の腕を掴んで職員室まで赴き、コピー機を借りて脚本を複写したあとで体育館に赴いた。そこには戦争から避難した人と人と人。部長は白衣を脱いで、僕らは壇上に上がった。
 そして遅まきのプロローグ。
『ロミジュリ・ミレニアム』の開幕だ―――
(lp1-2.html/2007-04-14)


/スターダスト☆ストーリー
Little Planet
Ruby
フレンチキス-ディープキス-
鳩尾-ミゾオチ-